想う、息をするたび

 映画を観るとき、部屋を暗くするのはマナーだと言った。手元が何も見えないじゃない、と言ったら、テレビの画面だけ見てればいいんだから必要ないだろう、と諌められた。今日の映画はラブロマンスとサスペンスを足して2で割って、少々のホラーっぽさをひとつまみ加えたような、そんな作品だった。あらすじと予告編だけは非常によくできたつくりだったのに、いざ本編を観ていると、どうも退屈というか。映画は終盤、いよいよ佳境に入らんとするところだった。おんなじソファでぴったり横にくっついて座っていたヴィクトルの顔がちらりとこちらに向けられたのを横目で見た。つまんなかったね、とでも言いたかったのかな。何も言わないヴィクトルに、わたしは彼に視線もやらずに画面を見つめていた。ずいぶん前からわたしの頭の後ろに伸ばされていた長い腕。それが急にだらりとわたしの胸元に落ちてきた。彼の指の先を追おうとして視線を一瞬落としたとたん、急に目の前が暗くなる。はっとして顔を上げたころ、ヴィクトルの顔が目の前にあった。ちゅっ、とわざと大げさにリップ音をたててキスするのが好きな彼は、今日もそうだった。少しして離れていくヴィクトル。テレビが全く見えなかった。

「なんで?」
「え?」

 ヴィクトルは素っ頓狂な声を漏らし、目をまん丸くさせた。

「どうして急にキスするの?」
「どうしてって…なんとなくじゃあ、だめ?」

 こてんと首をかしげるヴィクトルの顔の奥、ああ、やっぱりあの女が犯人だったのだ、と主人公の男性が吐き捨てていた。わたしは心底不思議だった。100歩譲って、まあ、キスだけであればなんとなく、で済ませてもいい。けれどヴィクトルの今のキスには、それだけで済まない色がにじんでいた。わたしの首の後ろから回されたヴィクトルの腕が、いつのまにかわたしを引きよせ、その指先で首筋をなでているのが何よりの証拠だった。そんな雰囲気など今この瞬間、微塵もなかったはずなのに。大人しくつまらない映画を二人並んで観ていただけだったのに。
 そもそも、わたしはダビデ像みたく美しい肢体をもつこの男が、性に駆られ、行為に及ぼうとするそのぜんぶが不思議でならなかった。これはわたしの先入観で、ヴィクトルだって一人の男、ひいては人間なのだから当たり前なのだろうけど、それでもなんとなく違和感のようなものをぬぐえないというのが本音だ。

 ヴィクトルの長くて細い指が顎に宛がわれる。それをくっと下に引かれ、薄く唇を開かされることを、殊更に優しく強要される。かぱ、と開いたわたしの口元に、ヴィクトルは今度長い舌を差し入れて深いキスを始めた。美しい男は、唇も、歯列も、舌すらもきっと作り物のように端正なかたちをしているのだろう。あむ、あむ、と何度も角度を変えながら、舌を絡ませ、弄り、吸い上げられる。けれどわたしの視線はテレビにむけられたまま、ぼんやりと映画の続きを眺めていた。テレビの照明で、ヴィクトルの顔が逆光になる。熱のこもり始めたヴィクトルの肢体が、徐々にこちらに密着していくのがわかった。衣服のこすれる音。だらしのない、粘着質な水音。はふっ、と上がった鼻息でヴィクトルの前髪が揺れ、頬をかする。くすぐったい。テレビに向かって二人ソファに並んで座っていたはずなのに、いつのまにかわたしの体はヴィクトルに抱き枕のように強く抱きこまれていた。

 ちらりとヴィクトルを見る。ゆっくり顔が離れていった。

「ねえ、なんで?」

 再度疑問符を唱えたら、さすがのヴィクトルも微妙な表情になった。柳眉がきゅっと寄せられ、どちらのものとも分からぬ唾液でぬらぬらと濡れる薄い唇は、その端が分かりやすく下がった。

「好きだから。愛おしいから、キスしたくなるのがそんなに不思議なのかい?」

 また。彼は声にするなんてもちろん、文字で表すのすら恥ずかしくなるような台詞をぺらぺらと放ってみせた。わたしはもう、映画の続きを観る気にはならなかった。
 手を伸ばし、その頬に触れる。ヴィクトルは少し驚いた表情をしていた。尖った顎に、陶器のように滑らかな頬、細い鼻先、瞳までの眉間のくぼみ。まるみを帯びる額まで指を滑らせ長い前髪を退かすと、ペリドットに青空を混ぜたような、美しい瞳があらわれた。その二つの瞳は、しかとわたしに向けられ、わたしだけを見ていた。あまりの端正な顔のつくりに、ほう、と思わず感嘆の息が漏れた。
 彫刻のように完璧なつくりの顔をべたべたと触って満足していたわたしの手は、その顔を主であるヴィクトルの手にぱしりと捕らえられ、優しくない力で握りこめられた。

「…きみはいつもそうやって俺のペースを乱すよね」

 こんなに好きなのは、俺だけなの。
 吐息を漏らすように、ヴィクトルは告げた。真剣な表情で、それは少しの愁いを帯びていた。初めてヴィクトルの視線が落ち、長い睫が影を作る。シルバーの長い睫は、それだけで非常に高価なもののように思えた。

 何が不服なのか、ヴィクトル・ニキフォロフ。わたしはいま、こんなに幸せなのに。

「ヴィクトルほど美しくて完成された人が、俗物みたいなほかの男たちとおんなじように、なんてことないことでそういう気持ちになって、手を出してくるのが、わたしにはどうも不思議に感じてしまうんだよ。でもね、同時にそれはすごく、こそばゆいくらい嬉しいんだよ」

 このへんがくすぐったいの、と捕えられていないほうの手で自分の胸元を指すと、ヴィクトルはまた変な表情をした。暗くてよく見えなかったけど、どうも耳が少し赤い気がする。それをわたしが気づいたことに、ヴィクトルは気づいたのだろう。先ほどよりも、もっともっと強引で、性急なキスをされた。先ほどまで大人しくしていた首筋にあてがわれたヴィクトルの指先は、おあずけをくらっていた犬のように、荒々しくわたしの衣服の中に突っ込まれた。そのうちにそのまま押し倒されて、部屋が暗かったのをいいことに、ヴィクトルは早速ベルトのバックルをかちゃかちゃと音を立てて外しにかかっていた。
 あまりにも美しい人の皮を被せられたこの青年は、けれどその中身は、わがままで、時々泣き言も漏らすし、子供じみた執着心を覗かせる、紛れもない人間だった。