もうきっとあなたのことしか祈れない

 わたしがこの部屋に越してきたのは今から3週間ほど前のこと、「件の荷物」が届く2週間前のことである。1,2年とわりかし実家から近い大学へ通っていたのだが、校舎の老朽化に伴い、かなり離れた地区に新キャンパスが本年度から開講されたのだ。それに際してなかなか電車通学は大変だと、この春、晴れてわたしは一人暮らしをスタートさせたわけである。部屋は築数年の小さめだが綺麗な学生マンション。周辺にはいくつもコンビニが立ち並び、オートロックでお風呂とトイレが別々の、長らく都市郊外に住んでいたわたしにとってここはまさに好条件の物件だった。学校までは電車で2駅、自転車でも通える距離だ。
 意気揚々と一人暮らしを始めたわたしは、その2週間後、この部屋に越してきたことをひどく後悔するハメになるのだった。

 それが届いたのは夜の7時を回った頃だった。明らかに定型外すぎる大きさのダンボールを前にわたしは呆然と立ち尽くしていた。ダンボールに貼っつけられた伝票には、確かにこの住所のこのマンションの、わたしの部屋番号が印字されている。けれど宛先人はわたしではない。これは推測なのだけれど、多分わたしがここに越してくる前に住んでいた住民宛のものなのではないだろうか。青と白のボーダーのポロシャツを着た宅配便のお兄さんは、伝票の名前をよく確かめもせず玄関先にこの大荷物を置いていそいそと出て行ってしまった。他人宛の荷物である、開けるのはもちろん触ってしまうのも良くないだろうと思ってすぐに引き取りに来てもらおうと受話器を手にとった。けれどボタンを押す直前、わたしはダンボールから一枚の紙切れがはみ出ているのを発見してしまって、それが他人さまの荷物であるにもかかわらず、その紙を引き抜いてしまった。思わず、だった。
『必ず、あなたのもとへ届きますように。』
 どきっとした。誰かに監視されているような気になった。503号室はここだ。もしかして、この荷物はわたし宛に届けられたもので間違いないのではないだろうか。唐突にそんな気になってしまった。紙切れを足元に置いて、わたしは気づけばそのダンボールを開けてしまっていた。開けて、5秒で5秒前の自分を呪った。果てしなく時間が巻き戻ればいいのにと願ってしまった。あわよくば、配達のお兄さんがやってきた、10分前に。わたし宛の荷物ではないと、はっきりと突き返せばよかったと。

 ダンボールの中身は「ドール」だった。それも少年。栗色の髪の毛と、びっしり生え揃った長いまつげが印象的だった。「ドール」とは今現在は製造が中止されている人型愛玩具の総称で、購入するのはほとんどが性的使用を目的とされている。倫理的とか道徳的とかが云々かんぬんで、ドールの製造は少し前から中止されているものの、すでに製造されたもの、または法の目が行き届かないところで実際には未だ製造されていると噂されていた。わたしのドールに対する知識はこれくらいだった。ニュースでちらっとその名前を見ただけ。こんな人形を買ってえいこら疚しいことをしようだなんて考える輩を気持ち悪いと感じたくらいである。もちろんドール本物を見るのは初めてだった。ドールとは名ばかりで、それはもう本当に人間にしか見えなかった。しかも問題は、それが少年であるということで、おっぱいがついていない代わりに男性の象徴がついているドールであることだ。つまり本来のこのドールの購入者は少年嗜好、ショタコン野郎だったということ。わたしとしてはほとんどのドールは可愛らしい少女をイメージしていたので、なんだか世の知られざる性癖をかいま見てしまった気分だった。
 ドールを開けてしまってどうしようもないわたしは、とりあえず付属されている説明書を開いた。おどろくべきことにドールの動力源は日光だという。ドールを日当たりの良い場所に置いて数時間日光浴をさせると動き出すというのだ。人間のように食べ物を食べることもできるし、もちろんセックスも出来る。言葉も話せるし、ある程度の学習はできるらしい。わたしはぞっとした。けれど同時に、強い好奇心にも駆られた。半分冗談だと自分に言い聞かせながらも、素っ裸の少年のドールを窓際に引っ張ってきて座らせた。ドールだから寒いとかは感じないのだろうけれど、見てくれがどうも良くなかったので肩に毛布をかけてやった。じっくりとそのさまを観察する。人間にしか見えなかったけれど、充電のされていないドールが息をすることはなかった。わたしは窓に向かって座るドールを眺めながら、夕食を食べ、お風呂を済ませ、ベッドに潜った。そのときのわたしは、ひょっとしてあした、何かが変わるのかもしれない、だなんて子供じみた期待をしていたのかもしれなかった。

 翌日に目を覚ましたわたしは、ベッドの中で裸の少年が自分に抱きついているのを発見し、驚きのあまり無言でそれを蹴り飛ばした。目を覚ましたドールは自分を「エレン」と名乗った。ペリドットの瞳。初めて見るドールは、あまりにも美しすぎた。

 信じられないかもしれないけれど、それからわたしはこのエレンと名乗るドールとの生活を始めた。他人の荷物かもしれない、なんていう懸念はエレンが言葉を話し始め、わたしと会話を続けるようになった頃にはどこかへ消えてしまっていた。そんな懸念を忘れてしまうくらいには、エレンは可愛かったのだ。見た目はだいたい15,6歳くらいのエレンはまずよく喋った。年上に敬語を使うという概念を理解しているらしく、下手くそな敬語を一生懸命使っていた。そうしてわたしが学校に行っている間は一人でおとなしく日光浴をし、帰ってくると大型犬のように喜んで出迎えてくれた。少ないバイト代の中でエレンに着る服を与えた。エレンは非常に手足が長く、何を着ても様になった。更に顔の作りも完璧だ。ドールとして作られるのだから、もちろんとっておきに可愛く作られたのだろうけれど、彼の表情にあまりにも人間味がにじみ出ていて、そう思わざるを得なかったのである。ドールのくせに、エレンはよく食べる。わたしは学校帰り、バイト帰りの夕食の買い出しがいつしか楽しみになっていた。美味しいですって、笑うエレンを想像してわたしもにやけ顔になっていただろう。でもなんとなく、エレンを外に出す気にはなれなかった。本物のエレンの購入者に、エレンを持って行かれてしまうと危惧したからだ。人様のものを勝手に開けて、使って(この場合本来の目的としては使用していなけれど)しまって、そりゃあとんでもない後ろめたさがあるわけだ。毎晩いつかエレンは回収されてしまうだろうと考えながら眠った。
 そんな生活を1ヶ月以上続けていた。

「エレン、人参の皮剥ける?」
「えっ、おれがやっていいんですか!」
「うん、そのピーラーでね、こうやって表面にあてて…」

 一緒にキッチンに並んで夕食を作るのも慣れてきた頃だった。エレンの身長はだいたい170センチくらいで、横に並ぶとわたしの同年代の男性よりも小さいと感じた。指を切らないようにね、と言おうとして、果たしてドールのこの白くて柔い肌の下に、わたしたちと同じ赤い血潮が流れているのだろうか、と疑問に思った。エレンはむっ、と唇を噛み締めて恐る恐るピーラーで人参の皮を剥き始めた。今日のご飯はカレーとサラダ、デザートにはシュークリームを用意してある。カレーのリクエストはエレンからだった。

「エレンはなにか嫌いな食べ物とかないの?」
「ん~、そうですねー、嫌いと思うほどの食べ物をまだ食べたことがないかなあ」
「ああ、なるほど。」
「でもおれ、あなたが作ってくれる料理はどれも美味しいと思います」
「ありがとう」

 にっこりと微笑まれて、その笑顔はとっても綺麗で可愛くって、こちらも自然と笑んでしまう。わかっていた、こんなお人形ごっこに身を投じている自分は、あまりにも愚かしく馬鹿馬鹿しいということは、実はかなり前からわかっていた。けれどそんな認識を踏み台にしても、わたしにはどうもこの生活をやめることはできなかった。初めての一人暮らしで、最後に彼氏と別れてはや1年半近くが経とうとしているわたしは、多分人肌が恋しかったのだろう。人形なのに。「ドール」とはそういう目的で作られただけの商品なのに。ときどき本当にエレンが生きた人間だったらいいのに、と考えるまでになると、そんな思考をする自分が恐ろしくなって気持ち悪かった。ドールはおそらくいまのわたしのような人間が開発したお人形なのだろうなと思った。
その日お風呂から上がるとエレンがやけにうれしそうな顔をしてドライヤーを手にしていた。わたしにベットのそばに座らせるよう促して、自分は意気揚々とドライヤーのプラグを差し込んでいる。

「髪乾かしてくれるの?」
「はいっ、いいですか?」
「うん、おねがい」

常々この長い髪を、誰か代わりに乾かしてはくれないだろうかと寝る直前にドライヤーを振り回しながら思案していたわたしは、まさかそんな突拍子もない願望がこんな形で叶うとは、と早速エレンに背を向けて座った。低いモーター音がすぐ後ろで聞こえる。エレンの長い指がそっと髪の毛の間に差し込まれた。エレンが何故突然こんなことを提案してきたのだろうと、わたしはさして気に留めることはなかった。エレンの手際は彼がドールであることを忘れてしまうくらい、まるで本物の人間にそうしてもらっているかのように錯覚してしまうほどだった。エレンは、もしかしたらこの部屋の、わたしが初めてのユーザーではないのかもしれない、と思った。こんなに可愛くて賢いのだから、たくさんの人に愛されてきたのかもしれない。でもそうなると、なぜエレンはそれまでの購入者のもとに留まっていないのだろう。もっと裕福で彼に贅沢をさせてあげられる購入者ばかりだったろうに。
ドールは果たしていつ廃棄されるのだろう。
くんっ、と髪の毛を引っ張られる。

「ん、エレン、ちょっと痛いかも」

ドライヤーの音でエレンの声は聞こえない。エレン、と振り返ろうとして、わたしはものすごい力でその場に押し付けられた。肩をつかんでいるのは、わたしの上に馬乗りになっている男は一体誰だろう。エレンだと、ドールだと思って油断していたわたしは驚きで声も出なかった。

「あんたはずっと、綺麗な髪をしてるんですね」

エレンがわたしのことをあんた、なんて呼ぶのは初めてだった。気のせいかもしれなかったけれど、彼の声は心なしか少し低く感じた。なんとかエレンに振り向こうとぐぐ、と顔をそらして自分の肩の奥の少年を見上げる。

「えれ、ん」

彼な瞳は、綺麗なペリドットのはずだ。こんな。こんなギラギラと輝く黄金の瞳を、わたしは見たことがなかった。瞳孔は細く開き、まるで明るい日の下にいる猫のように鋭く、その冷徹までな表情はまるで捕食者のようだった。
動揺していた。油断をしていたから。わたしの短く吐き出す息がカーペットに吸い込まれていって、そのうちにだんだんと口が乾いていくのがわかった。部屋の明かりで逆光になった、エレンと呼んでいたはずのドールはただ静かにわたしを見下ろしていた。

「…誰?」

 恐怖か、焦燥か。唇の間から漏れ出た言葉に、わたしの背中に馬乗りになったそれはかっと大きな目をさらに大きく見開いた。その金色の瞳には、悲しみと絶望と落胆の色が伺えた。なぜ。それはその直後に、「どうして」と消え入りそうな声で呟いた。

「どうして、こうもうまくいかねえんだよ…」

 す、っと背中の上から重みが退いていく。自由になった体でいますぐにでも部屋の隅に逃げ出したかったのだが、それよりもわたしは今にも泣き出しそうに表情を歪める少年ドールから視線を逸らすことができなかった。腕を引っ張られて上体を起こされる。そしてそのままドールの腕の中に吸い込まれた。冷たい。ドールは人間ではない。きっと皮膚の下に血は通っていないし、どくどくと鼓動を続ける心臓もないだろう。その冷たい腕に抱きしめられる感覚は言葉には言い表せない妙な感覚だった。

「どうして…せっかくまた巡り合えたのに、いつもいつも、どうして、こうなんだよ…誰が邪魔してんだよ、どうして…」

 ドールはひたすらに、どうして、どうして。と続けた。
 わたしに先ほど覚えた恐怖はもうなかった。でも、このドールの背中に腕をまわして抱きしめ返したいと思う気持ちも生まれなかった。

「エレン。どうしたの?」

 次の瞬間、ものすごい力で突き飛ばされて、ベランダの窓に強く頭を打ち付けた。一瞬意識が遠退くほどの痛みだった。目を見張る。エレンと呼んでいたドールが恐ろしいものを見るかのような瞳でわたしを凝視していた。”彼”はひゅっと息を吸った。

「俺は一度もあんたのことを忘れたことはなかった!!鬼として生まれようが、悪魔として生まれようが、生贄として生まれようが、いつもいつも、あんたのことだけを覚えていた!!2000年間!!何度生まれ変わっても一度としてあんたを忘れて死んだことはなかった!!」

 こんな大きな声、初めて聞いた。

「あんただって何度も俺を救い出してくれた…鬼の子の俺を、悪魔の末裔の俺を、手脚がない俺のことだって…目も耳も口も利けないときの俺も、必ず見つけ出してくれた…!いつだって覚えていてくれたのに…っ、どうして…こんな平和な世界に生まれたのは初めてだったのに…どうして俺は生きていない?どうしてあんたは俺を覚えていない…?なんでだよ…なんで…」

 聞いているだけで胸が張り裂けてしまいそうなほどの悲痛な声だった。
 エレンは続けた。魔女のわたしを助け出すことができなくて、一緒に処刑されたこと。エレンが死ぬ直前に産み落とされたわたしを見て、泣きながら死んでいったこと。村の生贄として捉えられたエレンと一緒に檻の中で心中したこと。戦地で敵同士として出会ったわたしたちがお互いに銃を撃ち合って世界から離脱したこと。何度も何度も生まれて、死んでいったこと。でもそのすべてで、わたしたちはお互いを愛していたこと。
 わたしは、壊れたくるみ割り人形の喜劇を見ているかのような感覚で、それを聞いていた。

「巨人も、俺らを迫害する害獣も、戦争も、疫病もない、こんな世界で生まれることができたのに…なんでおれは…」

 エレンはぐっと唇を噛みしめてから一度固まった息の塊を吐き出した。それから「ほんとうに覚えてないんですね」と悲しそうに、笑いながら言った。それはもう、すべてを諦め、悟り、悲しみに溢れた表情だった。
 わたしには何もわからないのに、ただ突然ドールが暴走を始めただけなのに、心臓を抉り取られるような痛みに襲われた。ごめんね、と謝りたい。でも、何を謝るべきなのかがわからない。きっと意味のない謝罪をしても、このドールはもっとずっと悲しむだけ。ドールが悲しみを覚えるだなんて、おかしな話のはずなのに。
 エレンはゆっくりとわたしに歩み寄った。その場にへたりこむわたしと視線を合わせるように、静かにその場に屈んで、こちらの手を取った。

「ごめんなさい、痛かったですよね、ごめんなさい。」

 人差し指、中指、薬指、小指の順で一本一本にキスをしていって、エレンは顔をあげた。瞳は金色のままだ。この瞳を、どこかで。

「またあなたと同じ世界に生まれることができたら、そのときは名前を呼んでくださいね。また、二人で…、俺は何度生まれ変わっても、きっとあなたのことを忘れないし、愛します。いつか…」

 エレンはわたしにキスをしたあと、糸が切れたように動かなくなった。わたしの体の上に倒れこんできて、睫一本動きはしなかった。その名前を呼んでも、どんなに肩を揺すっても、もう彼は息をしていない様だった。
 翌朝にドールの業者と名乗る女性が部屋にやってきた。眼鏡をかけた彼女は配送先を間違えたドールが行方不明になっていて、先日ようやくそれがこの部屋にあることを突き止め、やってきたという。つまり回収だ。ドールは明らかに起動された痕跡があって、わたしが勝手に買い与えた服も身に着けていて、本来の愛玩用としてではないものの無関係の人間が使用していたというのに、業者の女性はそれについては何も言わなかった。てっきりドール代を徴収されると思っていたわたしはその態度に違和感を隠せなかった。第一配送先を間違えられたドールを探すのにこんなに時間がかかるだろうか。女性の態度からは、ドールが間違えてこの部屋に届けられたようには感じられなかった。でもわたしはなにひとつ追求することなく、動かなくなったドールから服を脱がし、彼女が持ってきたケースに彼を横たわらせた。きれいな顔だった。寝ているみたい。

「今のご時世ドールの販売なんて後ろ指さされる仕事です、どうか今回の件は内密にお願いできますか?」

 わたしは頷いた。女性はまた小さく笑みを浮かべて、ケースの中のドールを撫でた。

「エレンはどうでしたか?」
「…どうって、」
「起動させたんでしょう?一緒に暮らしてみて、いかがでしたか?」
「わたしはモニターか何かだったんでしょうか?」
「いえいえ、そういうわけではないですよ。ただ、一科学者として感想を聞いてきたい」

 科学者、の言葉にこの女性はドールの販売というよりも、その開発に携わっているのだということを悟る。
 この1か月のことを思い出す。いつだってエレンは笑っていた。でも、もうよく思い出せなかった。昨日このドールが叫んでいた内容も、おぼろげで。それなのに胸の奥だけは痛い。

「特段変わったことは…普通に友人と暮らしているような感覚でした」

 そう告げると、女性はほんのわずか悲愴な面持ちを覗かせてから、「そうですか」と瞳を閉じた。立ち上がり様に名刺を渡される。

「私はハンジ・ゾエと申します。このたびはこちらの不手際で大変ご迷惑をかけて申し訳なかった。しかし、もしこれからドールの購入を考えられるようでしたらこちらにご連絡を」

 彼女はもう営業用スマイルを装っていた。名刺を受取って、玄関先まで彼女とドール入りのケースを見送る。部屋の外で業者の男性数人がケースを運び出していた。

「それではまたいつか、」

 いつかなんてもうない。ドールをこの先購入することなんてありえない。部屋の扉が閉まる。しんと静まり返るワンルーム。胸の奥の痛みは少しも和らがなかった。「さようなら」と呟くと、何故だか涙が溢れた。