あなたと食む微睡

 縁側に置かれた寝椅子に体を預け、書物に視線を走らせる老人が一人。長く白い鬚をたくわえ、皺の刻まれた口元を摩る様の一挙手一動は、まるで70を超える老人のそれには思えなかった。

「おはよう」

 欠伸を噛み殺しながら告げると、土方はちらりとわたしを横目に見てから「もう昼だ」と呆れたように告げた。屋敷の中には寝椅子でくつろぐ土方と、今しがた布団を抜け出したわたししかいないようだった。外で鍛錬を続ける牛山の声が聞こえる。全身チンポ先生は時々外で鍛錬を積みながら「女ー!!」と叫んでいたりするので、それはなかなかに面白い。あれだけ性欲にがめつい男だが、同じ屋根の下にいるわたしを襲うといったような凶行に及んだことはなかった。彼も一応理性の働く人間であるようだった。

 土方の足もとで、火鉢がぱちぱちと音を立てている。人間を紙人形のようにばっさばっさと斬り捨て、悪魔のような一面を見せるこの老人でも、寒さを感じて火鉢の恩恵をあずかろうなんていうことを考えるようだった。なかなか人間味を感じられる貴重な光景である。そんな土方の足もとまでのろのろ歩いて行って、火鉢のすぐ目の前に座りこんだ。太陽が真上に昇る時間だろうが、この北の大地の凍てつくような寒さは本物だ。屋内でも足先からじんわりと冷えていく感覚に身震いをして、火鉢と寝椅子の間に体を滑り込ませたのである。ついでにそのまま寝椅子に背中を預けた。頭の上からふぅ、とため息が漏れるのを聞いた。

「こら、当たらないだろう」
「わたしもさむい」
「着込みなさい」
「火鉢がいいの」

 彼がそれ以上言及しないことをわかって、わざとわがままな物言いをした。ちら、と斜め後ろの土方を見れば、文句を言っている割に案の定表情一つ変えずに書物を眺める彼がいた。ふふ、と思わず零れた笑みを隠さずに、体を少し捻って土方の膝に頭を乗せた。和服の下、70を超えた老人のものとは思えない筋肉を感じる。上目で土方をじっと見つめていると、視線は少しもこちらにはくれずに、けれど年相応に皺の刻まれた大きな掌がわたしの頭をぽんぽんと撫でた。穏やかな午後である。うと、と先ほどお別れを告げたはずの睡魔に再び片腕を引かれた。重たくなる瞼に逆らわずに目を閉じる。と同時に襖がスパーンと開かれた。

「お前、やっと起きたと思ったらまた寝るのかよ」

 どこへ行っていたのか、そしていつの間に戻ってきていたのか。背負っていた銃を下ろしたあと、首元を緩めながら尾形は後ろ手に襖を閉めた。人が気持よく二度寝に入ろうとしていたところで、なんとタイミングの悪い男だろうか。土方に頭を預けたまま、じろりと怪訝な意を込めた視線を尾形に送った。もちろん彼は何所吹く風と、どかどかとこちらに歩み寄ってくる。そうしてあろうことかわたしの目の前から火鉢を取り上げると、どっこらしょ、と座り込んだ自分の前にそれを置いたのだ。火の気が遠ざかって、急に体感温度が下がる感覚を覚えた。

「…返して」

 すぐに非難の声をあげるが、やっぱり尾形はこちらのことなど気にも留めず、自分は壁に寄り掛かり、そばにあった新聞を手に取って読み始める。後からやってきておいて、しかも人から取り上げた揚句に火鉢を独り占めするなど、なんたる愚行。ゆるせぬ。なんとか言ってよ、といった意味を込めて土方を見つめるが、そういえばわたしも先ほど彼に尾形と同じことをしていたのだということを思い出して、すぐに視線を外した。土方はわたしの言わんとしていることと、そのあとに思案したことを見抜いたのだろう。ぺす、と持っていた紙の束で頭を軽く小突かれた。しかし土方のような懐の広さをわたしが同じように持ち合わせていると思ったら大間違いである。すぐに立ち上がって尾形の目の前の火鉢に手を伸ばすが、それを分かっていたかのように彼もまた火鉢をがしっと掴んだ。

「…」
「…」

 ぱき、と炭の弾ける音がする。わたしと尾形の手の中で。むっと眉をひそめても、尾形はこちらを小馬鹿にしたみたいにふふん、と鼻を鳴らすだけだ。力で勝てるはずもないのだ。このまま引っ張り合っても勝ち目はないし、取り合いしているのが玩具などではなく火のついた火鉢であるのだからもちろん危険もある。諦めて火鉢から手を離した。尾形は片眉を挙げて、またにぃと意地の悪い笑みを浮かべた。
 仕方なしに立ちあがって、今度は胡坐をかく尾形の脚の間に腰をおろした。

「は?邪魔」

 ムカついたので尾形の胸元にぐっと背中を預けてやった。目の前には温かい火鉢。平穏は取り戻された。尾形に顎でぐりぐりと頭の天辺を圧迫されようが構わない。体を少し横に回転して、尾形の胸板に頭を預けた。彼の心臓の音が聞こえる。ゆっくりとした鼓動、人の体温はどうしたってこんなに心地が良いのだろう。わたしはそのまま瞼を閉じた。

「おい、だから寝るのかよ」
「うん」
「重い、邪魔」
「尾形が火鉢ひとりじめするのが悪い。こうしたら…二人ともあったかい…一石二鳥」

 なんだか本当に眠くなってきた。言わないけれど、わたしは尾形の匂いが好きだ。その匂いには、たまに硝煙と、鉄の匂いが混じるけれど。彼のシャツに顔を埋めるふりをしてすんすんと匂いを吸いこんでやった。今日は違う。日の下にいたのだろうか。かすかに陽だまりの匂いもした。薄目を開けて、畳に放り投げられた尾形の手を掴んで引き寄せる。わたしはそれを自分のお腹の上に置いて、握って、また目を閉じた。文句はもう飛んでこなかった。わたしの手の中で、尾形の指はぴくりとも動かない。少しかさついて、指先は軍人らしく硬く肉刺になっている。確かめるようにそれを親指で撫でていると、今度は尾形のほうからぎゅっ、と強くわたしの手を握った。あ、少しだけ。一昨日の夜のことを思い出す。
 本格的に睡魔に襲われた。いい匂い。温かくて、昨日見た血の景色さえ忘れられる。
 まどろみの中、猫が猫を囲っておるわ、とけたけたと笑う土方の声が聞こえた。