駆け出すつま先が愛しくて

 新しいコートでも買おうかな。ヴィクトルに話したら、それこそ街中の店という店を回って「これも可愛いね、あれも似合うね」とまるまる一日は連れまわされるだろうから、そんなことはこっそりと心の中で思案した。そして件のリビングレジェンドこと――ヴィクトル・ニキフォロフは、シャワーを浴び終え、髪の毛をタオルでおざなりに拭きながらわたしの座るソファの後ろまでやってきた。背後で長身の彼がほかほかと湯気だっているのが分かる。ぽたり、と恐らくヴィクトルの髪の毛から滴った水滴がわたしのうなじに落ち、大げさに肩を揺らしてしまった。

「なあに見てるの」
「…コート。そろそろ新しいの買おうかなって」

 のしっ、とヴィクトルが背後から抱きついてくる。濡れた銀色の髪の毛がわたしの頬に張り付いて、少し冷たかった。ちらりと横目で彼を見る。水滴をまとわせた銀色の髪の毛と長い睫は、照明に反射して眩しくなるほどきらきらと色彩を放っていた。ヴィクトルは、どうもつまらなそうな表情をしているように思えた。

 ぱっ、と背後からの重みがなくなったかと思うと、ヴィクトルはいつの間にかわたしの正面に現れた。細身のデニムを身につけただけの(彫刻のような均整のとれた白い上半身を見せつけられているようだった)ヴィクトルは、そのままわたしの隣に腰を下ろし、体ことこちらにむけて胡坐をかいた。

「…ヴィクトル、髪の毛ちゃんと拭いて。濡れちゃうでしょ」
「…じゃあ君がやって」

 ぽたぽたとデニムに水滴が吸い込まれていく。仕方なしに雑誌をテーブルに戻し、ヴィクトルの肩にかかっていたタオルを取ってその髪の毛に触れた。向かい合うように座り、膝立ちになってわしわしと決して丁寧とは言えない手つきでその髪の毛を拭いていった。それにしてもなんてきれいな髪の毛をしているんだろう。きらきらと照明に反射するこの銀色は、昔見たお人形さんのようだと思った。美しい以外の形容詞が見つからない。あるとすれば、作りもののよう、といったところか。時々垣間見える、真っ白で丸みを帯びた額がなんだか可愛らしい。こんなものかな、と手を止めようとした矢先、突然ヴィクトルの長い腕がわたしの胴に巻きついた。むぎゅっ、と強い力で抱きこまれ、思わず「うぐっ」と情けのない声が漏れた。視線を落としても、見えるのは美しい銀色と、触れてはいけない魅惑のスイッチ、すなわち彼の旋毛だけである。

「…ヴィクトル、どうしたの?」

 どうも、今日の彼はご機嫌がよろしくないようだった。

「君は、嬉しくないの?」
「なにが?」

 ヴィクトルがわたしの胸元に顔を埋めたまま口を開いた。

「俺の金メダル、嬉しくないの?」
「…どうしたの、急に」

 ちらり、とリビングの端、壁に取り付けられたチェストの上で寂しそうに放置されたゴールドのメダルを見た。

「俺は、もちろん俺自身のためでもあるけれど、金メダルをとったら君が喜んでくれると思って、滑ったんだ。毎年、毎年。あの色のメダルで、もっと喜ぶ君が見れると思ってた」

 それはつまり、わたしがヴィクトルの優勝にさほど感動しているように思えないということだろうか。わたしはわたしなりに喜びを表現して、その栄光を称えていたつもりではあった。けれど、ヴィクトルがいま言う、金メダルをとったらわたしが喜ぶ、というのは、少しニュアンスの違う話だと感じた。
 ヴィクトルは最近、どうもつまらなそうな顔をしていたのだ。
「ヴィクトルの優勝、あの金メダルはとってもすごいことだと思うよ。他の誰にもなしえない、偉業だと思う。でもわたしは、それだけが嬉しいと言われたら、そうじゃないって言うと思う」
「…、どうして?君の喜ぶ顔が、もっと見れると思ったのに、…俺は次、何をしたらいいんだ」

 顔を上げたヴィクトルの宝石みたいな瞳は、わずかに潤んで、滲んでいた。泣くなよ、27歳。氷上で見せる、絶対的な王者の風格は、今やそのわずかも垣間見ることはできなかった。
 ヴィクトルは、ずっとずっと周囲の期待に答えるために、答えようとして、常に新しいことに挑戦してきた。そのたびに、確かに周囲は驚いて、割れんばかりの喝采の拍手を送りはしたけれど、きっとヴィクトルはそんなヴィクトルである自分に少し疲れたのかもしれなかった。わたしからすれば、あの金メダルを手にした瞬間のヴィクトルにこそ、「嬉しくないの?」と問いたかったほどである。
 まだしっとりと水分を帯びる髪の毛を優しく撫で、白い額にキスをした。

「わたしはヴィクトルが楽しいって、嬉しいって思うことが嬉しいんだよ。ヴィクトルは最近、いつもつまらなさそうに、執着のない顔をしてるよね。これからはさ、ヴィクトルがわくわくするような素敵だと思うことをしたらいいよ、それはつぎつぎと新しいことをして驚かれることだけじゃないと思う」

「ヴィクトルが楽しいって思う、素敵なことをしてほしい、そしたらわたしはすごくうれしいと思うよ」と、その言葉で締めくくった。我ながら少し饒舌すぎたかもしれない。ヴィクトルはなんともいえない、不思議な表情でわたしを見つめていた。そうしてしばらく見つめあったのち、ヴィクトルは急に目をきらきらと輝かせながら、ひどく喜んだ時に見せる、口をハートの形にして、またわたしを強く抱きこんだ。

「…~っ!ありがとうっ、ありがとう!君はほんとうに…、もう、なんていうか最高だよ!」
「はは、ありがとう」
「適当に言ってるんじゃないよ、適切な言葉が思い浮かばないだけなんだ!」
「はいはい。分かった、分かった」

 ヴィクトルはまた勢いよく顔を上げ、今度はわたしの体をくるりと反転させて自分の脚の間に座らせた。またものしっ、と背後から抱え込まれつつ、どこから取り出したのか、ヴィクトルはスマートフォンをわたしの前に持ってきて、「これを見てほしいんだ」と、動画を再生し始めた。
 小さな液晶の奥では、黒髪の日本人スケーターがヴィクトルのフリープログラム、「離れずにそばにいて」を滑っていた。目を奪われる、とはこのときにこそ使うべき言葉だと、そう実感した。濡れたヴィクトルの髪の毛が頬に触れようと、そんなの気にも留めなかった。二人して、食い入るようにその動画を見つめていた。

「俺がね、今わくわくするのは、これなんだ。彼なんだよ」
「カツキユウリ…、グランプリファイナルでぼろぼろだった、あの人かぁ」

 動画を再生し終えた後、そのままヴィクトルの端末でカツキユウリなる人を検索した。ヴィクトルも一緒になってその検索画面を見ていたけれど、途中でまたわたしの体をくるりといとも簡単に反転させて、強い力で肩を掴んできた。

「俺は行く、日本に、勇利のところへ行く!」
「うん、いいと思うよ。いまのヴィクトルの表情、すごく素敵だもん」
「うん!勿論君も行くんだよ!もう早速飛行機のチケットは取るからね、君も荷物をまとめておいてね!そういうわけだから、明日は忙しいよ、今日はもう寝ようか!」

 ヴィクトルは何か非常に重要なことを、今のまくし立てられた早口の中で告げていたような。急に上機嫌になったヴィクトルにすいと抱きあげられ、そのまま寝室へ連行された。

「待って、やっぱりさっきなにか大事なことを言ったよね?」
「ハセツってとこらしいんだ。しかも勇利の実家はオンセンらしい。いいねえ、オンセン!行ってみたいねえ。ああ、とっても楽しみだ!」
「ヴィクトル、こら」
「明日は忙しくなるぞ~、アハハ、おやすみ」

 その数日後、わたしはヴィクトルとともに、長谷津町の地を踏んでいた。