いとしい気持ちにやさしくなれば

 玄関の施錠が外される音を聞いた。時計を見る。思ったより早かったな、と思案しながら、手にした雑誌をローテーブルに戻すのと、背後でリビングの扉が開かれるのはほぼ同時だった。ふわっ、と外のにおいと冷たい外気が合わさって部屋に流れ込む。首をひねって背後の彼に振り向くより、彼の顔がわたしの真横に近づくほうが早かった。ちゅっ、と冷たい冷たい唇が頬に触れる。つんと当たった高い鼻先も氷のように冷たかった。外はよほど気温が低いようだった。

「冷たい。寒かったでしょ」
「うん。雪は小ぶりになってたけど、だいぶ冷えるよ」

 市内のスタジオで雑誌の撮影を終えて帰宅したヴィクトルは、早朝から出払っていたというのに、その疲れを微塵もにじませない口調で言ってみせた。背後でぱたぱたと響く足音。わたしの目の前にやってきたヴィクトルの表情は、おかえりのハグを待っている子供のようなそれだった。わたしはほう、と息をついた。
 ベージュのトレンチコートに、ボルドーのストール。細身の黒いパンツを身につけたヴィクトルの格好は、いたってシンプルであるのに、それゆえ、さながら街頭のショーウィンドウから抜け出してきたマネキンのようだった。これほどまでに、このシンプルな格好の服装を着こなす人類がほかにいるだろうか。(いや、いない。とわたしは思う)あまりにも均整がとれた体躯と、その上に乗っかった怖いほど美しい顔立ちは、何度見ても本当に生きている人間とは思えないほどである。ようは、久々に見たヴィクトルの私服姿に見とれていたのである、わたしは。しみじみ、と銀色の髪の毛から、足のつま先までを眺めていると、ヴィクトルは途端ににっ、と口端を吊り上げて笑った。

「俺に見惚れてたんでしょ」

 ぐうの音も出ないほど図星である。しかしあまり褒めると、単純な27歳、また調子に乗るであろうから、「少しね」と軽い返事を返した。ヴィクトルはコートの襟を正し、きっとそれで何人もの女性を落としてきたのであろうと思われる、妖艶な笑みを湛えて首をかしげて見せた。

「どう?」

 不敵に微笑んでみせたヴィクトルの笑みは、逆光になって余計に色気を増しているような気がした。こんなフィクションみたいな出来の人と、ひとつ屋根の下で暮らしているなどといまだにちょっと信じられない。というか、慣れない。一人怖々とそんな事実に改めて向き合わざるを得ないのだった。

「外を歩くとねえ、みんなが俺に見惚れてるのが分かるよ。それは男でさえね」

 おや、リビングレジェンド。一体何を言い出すのやら。

「君はそんな俺を独り占めにできる権利があるんだ。すごいだろう」

 ふふん、と何がそんなに誇らしいのか、ヴィクトルは自信満々に笑みを浮かべた。
 独り占め、わたしはその言葉を反芻していた。そして、喉の奥がくすぐったいような、むずがゆい気持ちを覚えた。そう、他の人は知らない。ヴィクトルに恋い焦がれる女性たちも、憧れる男性たちも、喝采を送る人々も。この人のこんな子供みたいないたずらっ子の表情も、面白くないことがあるとすぐに見せる拗ねた表情も、星のように美しい涙を零す姿も、わたし以外、誰一人知らないのだ。むくむくと湧きあがるのは、背徳感と優越感。きたない人間だなあ、と自覚はあった。

 ソファから立ち上がった。目と鼻の先にヴィクトルの胸元、彼はまだ外のにおいを纏わせていた。細い腰に手をまわし、胸板に顔を埋めてヴィクトルを抱きついた。(わたしとしては抱き締めているつもりなのだが、体格差から、「抱きついている」という言葉の表現のほうがなんとなくしっくりくる気がした。)頭の上で「わお」と嬉しそうなヴィクトルの声。温かい。この人はちゃんとここにいるのだ。彼の存在を再確認した。

「どうしたの、大胆だねえ」

 上機嫌な声音で告げ、ヴィクトルは流れるような手つきでわたしの腰に手をまわして抱きしめ返してくれた。体全部で感じる、ヴィクトルの熱。におい。些細な動きさえ、なんだか愛おしかった。
 当たり前とは、恐怖だ。この人が目の前にいて、名前を呼んで、そばにいてくれることは、決して当り前のことではない。そのひとつひとつは奇跡のようなものなのだ。わたしは時々この奇跡を失念してしまう。あまりにも、彼が近いから。息を吐くように愛をささやいてくれるから。それこそが奇跡のようなことなのに、人間って、本当に愚かにできているから、(それってもしかしてわたしだけなのかもしれないけれど)時々、ねじが外れたみたいにぽろりと抜け落ちてしまうことがある。再認識した。手を伸ばした先にこの人がいて、触れることができて、抱き締めると、抱き締め返してくれるこの幸せを。
 すり、とヴィクトルがわたしの頭に頬を擦りつけた。お返しとばかりにわたしはヴィクトルの胸板に耳を押し付けた。心臓の音が聞こえる。その速度は少し早いように思えた。可愛くて、思わず声を出して笑ってしまった。

「えっ」

 急に抱きあげられて、背後のソファに押し倒される。宝石みたいな瞳がじっとこちらを見つめていた。ゆっくり、彼の顔が落ちてくる。ヴィクトルの唇はもう冷たくなかった。熱を帯びて、しっとりと厭らしく濡れていた。
 
「キスをすると、安心するんだ」

 吐息が熱い。ほんの少し動けばまた唇が重なり合うだろう近さで、ヴィクトルは続けた。

「君がちゃんとここにいるんだって、実感できる。あったかくって、存在を感じられる。キスをすればするほど好きになっていくんだ。ちょっと怖いくらいにね」

 そう言って、またキスを再開させるヴィクトルの頭を抱え込んだ。ヴィクトルの目が珍しいものを見るように丸くなる。けれどそれはすぐに熱を宿して爛々と輝き、キスは一段と深く、激しいものに変わった。舌で無理やりに唇を割られ、咥内をまさぐられる。舌の裏をぎゅっ、と押しこまれ、溢れた唾液でぴちゃぴちゃとはしたない水音が響いた。じゅっ、と音がするほど舌を吸い上げられたあと、ようやくヴィクトルは顔を上げた。先ほどには見せなかった雄の表情を覗かせている。ぺろりと口の端を舐めてみせる仕草なんて、それだけで人が殺せるだろう、と本当に思った。

「嬉しい」
「え?」

 いそいそと乱暴にコートを脱ぎ棄てようとしていたヴィクトルが、わたしの言葉には一瞬我を取り戻したように目を丸めた。

「ヴィクトルが、わたしと同じようなことを考えていたことがね、嬉しい」
「…光栄だな、君もこんな風に思っていてくれたんだね」
「そう、ちょうど、いま。」

 やっぱり人間って、そんなにうまく出来ていない。たまにこうして、触れあって、感じ合わないと、忘れてしまうことだってあるんだと思う。でもそれがまた、愛おしいのだ。

「さ、ご飯食べよう」
「え!今それ言う?せっかくこんないいムードだったのに」
「ヴィクトルが帰ってくるのを用意して待ってたんだよ」

 コートだけでなく、最早ベルトのバックルにまで手をかけんとしていたヴィクトルは、むう、と唇を尖らせたあと、大きなため息をついて肩をすくめた。

「分かりました。お姫さま」

 起き上ったヴィクトルに引き上げられ、そのまま横抱き(いわゆるお姫様だっこというやつである)にされ、すぐそばのキッチンにまで連れて行かれた。ヴィクトルが帰ってくる数分前にタイマーが切れたコンロの前で降ろされる。ヴィクトルは今度わたしの手を取ってその指先をキスをするのだから、さすがにキザが過ぎるだろうと呆れる一方、しかしわたしの顔はこらえ切れずに笑みを浮かべていた。

「何をしても絵になるね」
「お褒めにあずかり光栄だよ」

 ヴィクトルは嬉しそうに笑った。