愛を欲しがる術を知らない*

 余裕のない表情。それはすごく珍しいものだった。ぽたぽたと汗の雫がわたしの体に降ってくる。長い銀色の髪の毛は、彼が体を揺らすたびにぱさぱさと音をたてた。どれくらいこうされているだろうか。いろいろなところがしびれてきたというか、感覚が薄くなっている気がした。余裕のない表情だけじゃない、こんなふうに優しくないヴィクトルは、とてもとても珍しいのだ。わたしには、彼がこうなってしまったことにたったひとつだけ心当たりがあった。でもそれは、とてもとても些細なことで、正直彼をここまで駆り立てる要素にはなり得ないと、はじめのうちはそう思っていた。この錆びれたホテルに連行されてきたときの自分をひっぱたいてやりたかった。

 ことの始まりは、恐らくゆ~とぴあかつきでわたし達が行っていた、あの行為だったように思える。

 ヴィクトルは男のわりに、というか、外国人のわりにお風呂が長い。あれだけ広くて立派な露天風呂があるのだから、ゆっくり満喫したい気持ちはもちろんわかるが、それも毎日続くと、単に彼があの温泉を気に入っているのだということが伺い知れた。わたしが温泉からあがり、すっかり髪の毛も乾かして広間で勇利くんと談笑しててもなお、ヴィクトルは戻ってこない。「長いねえ」と勇利くん。「温泉、気持ちいいもんね」と返答をしたところで、勇利くんはおもむろにストレッチを始めた。アスリートたるもの、就寝前のストレッチには余念がないようだ。自身もずいぶん前に寝支度を整えていた勇利くんは、ぐっ、ぐっ、と開脚をしたり、前屈体勢をとって足の筋を伸ばしていた。

「わあ、さすが。柔らかいね」
「そうかな。昔からこれくらいは普通だったから…」
「体柔らかいのって、羨ましいな、わたしもヴィクトルのまねをして、少しはストレッチとかしてみてるんだけど、あんまり効果がなくって」

 わたしも勇利くんの体勢を真似て、足を揃えて前屈体勢をとってみせた。指先はなんとかつま先に触れるが、勇利くんみたいに掌で掴めるほどではなかった。

「毎晩やってればできるようになるよ」
「そっかぁ、継続は力なりだね」
「そうそう」
「あ、もしよかったら、背中少し押してくれない?自分じゃどうにも前に倒せなくって」

 勇利くんは180度くらい開いていたが、わたしの開脚はよくてその半分の90度くらいだ。なんとか足を開いて、上体を倒そうと試みるが、足の筋が悲鳴を上げている。お願いします、と自分で背中を指差すと、勇利くんは何故か気難しそうな表情をしてから、意を決したように眼鏡のブリッジを直した。そんなに構えなくても。ほんの少し押してくれるだけでいいのだ、わたしだって急にぺたー、と上体を倒せるようになりたいわけじゃない。

「じゃ、じゃあ、押すよ?」
「はい。せーの…」

 温かい二つの掌が肩甲骨のあたりに置かれる。そしてそのままぐぅ、と押しこまれ、

「い゛っ、たたた…」
「あはは、本当に硬いんだね」
「ん゛~、いたっ、い、いた…んっ、」
「深呼吸しながら、はい、息を吸って」
「はあ、…うっ、」

 いち、にい、さん、し。勇利くんの優しい声音でカウントがとられる。なんとか上体を倒し、それからゆっくりと体勢を元に戻す。前に倒れ、右に倒れ、左にも倒れる。勇利くんは殊更優しくわたしの体を扱い、穏やかな声音でカウントを取り続けた。

「はぁ…んっ、いだっ、…ひぃ…いたい…」
「がんばれ、がんばれ」

 全身がものすごく熱くなる。せっかくお風呂に入ったのに、また汗をかいてしまうほどだった。痛い。わたしってなんて体が硬いんだろう。今度からヴィクトルにもストレッチを手伝ってもらおう。きっと彼のことだから、大笑いしながらわたしの背中を押すんだろうなあ。

「アハハハ、辛そうだねえ」

 そうそう、こんな風に。

「あ、ヴィクトル、おかえり」

 勇利くんの声で顔を上げた。ほこほこと湯気を立てるヴィクトルが、わたしが想像した通りの表情をしてそこに佇んでいた。

「なあに、仲良くストレッチかい?」
「いたたたた…、そう、勇利くんに手伝ってもらってたの。わたし、かなり体硬いからさ」
「ふうん」
「ごめんね、優しくしたつもりなんだけど」
「痛くなかったらきっと効いてないと思うよ、ありがとう」

 わたし達はそれから、いつものようにまた少し談笑して、ヴィクトルは少しお酒をつまんで、零時を過ぎる頃には「おやすみ」と交わし、各々の部屋へと戻っていった。自室(というより、勝生家の厚意でわたしが貸して頂いている宿の一室)に戻り、スマートフォンの端末に充電プラグを差し込んでからベッドに横たわった。部屋の襖が開かれるのは、それとほぼ同時だった。

「え、ヴィクトル?」

 ヴィクトルは、にこにこと不自然なほどに笑みを湛えていた。なぜか、寝るときに身につけるモスグリーンの甚平ではなく、私服にコートまで羽織っている。今まさに外に出かけんとするような格好で、ヴィクトルはずかずかと部屋に上がりこみ、壁にかかっていたわたしのコートをひっ掴んだ。

「ねえ、少し散歩でもいかない?」

 

 有無を言わせずパジャマの上からコートを着せられ外に連れ出されると、散歩といったくせに、ヴィクトルはどこか目的の場所があるように早足で歩いていった。腕を引かれるわたしは、その長い脚のリーチのせいで、ほとんど引きずられるような形だった。ヴィクトルは何も話さなかった。それが不気味で、わたしも軽はずみには言葉をかけられず、終始無言のままわたし達は暗い街中を歩いていた。ヴィクトルの足は、そのうちに繁華街に向けられていることが分かった。こんな時間からまた飲むつもりなのか。そう楽観的な思案しかできなかった自分が、今思えば愚かで仕方がない。もはやそれは連行に近かった。
 ヴィクトルがやってきたのは繁華街のはずれ、怪しいネオンが光り輝くホテル街だった。えっ、と驚きの声を出す間もなく、わたし達はホテルに吸い込まれ、あれよあれよという間にその一室にたどりついてしまったのだった。
 その部屋は窓もなく、暗く、中央には安っぽいベッドとチェストが備え付けられていた。ベッドの正面にはテレビがあり、テレビ台の下にはありとあらゆる「そういう玩具」が並べられている。ヴィクトルの顔が見れなかった。わたしはたぶん、恐怖していたのだと思う。振り返ったヴィクトルがわたしの肩を強く掴んだ。

「ねえ。俺のこと見てよ」

 視線を上げた先で、ヴィクトルは表情もなくわたしを見下ろしていた。

 あれからどれくらいの時間が経ったことだろう。ヴィクトルが体を揺するたび、がしゃんがしゃんと、スプリングは最早安っぽいとだけでは評価できないほどの音を立てていた。誰が使ったかもわからないこの汚れたベッドで、紙みたいなシーツの上、蹂躙は続けられた。
 いつだってヴィクトルは優しくて、行為の最中だって呼吸が惜しいと言わんばかりにキスをねだり、頬に触れ、わたしの体に手を這わすというのに、この日ばかりは違った。ひたすらにわたしの両手をシーツの上に縫い付け、乱暴に腰だけを打ち付けてくる。あまりにも強い握力は、きっとわたしの血の流れをせき止めていることだろう。体の自由も許されず、言葉もなく、あの優しいヴィクトルにまるで強姦されている気分だった。
 お互いの汗が混じり合って、シーツに吸い込まれていく。顔を横にそらすと、反対側でぼんやりと灯る照明によって、黄ばんだ壁にわたし達の影がシルエットになって映し出されていた。大男が誰かをベッドに押し付けて、その足を担いでひたすらに腰を打ち付けている。わたしはそれをぼんやりと眺めていた。わたし達の影だとは、到底思えなかったのだ。

 それからまたしばらくして、ようやくヴィクトルの動きが止まった。白くて彫刻みたいに完璧なつくりの体が、肩で息をするほど疲弊していた。ヴィクトルは試合のあとみたいにぜえはあと荒い呼吸を繰り返し、滴り落ちる汗の雫をぬぐうこともせず、呆然とわたしを見下ろしていた。わたしも同じようにぜえはあと肩で息をしながら、そんなヴィクトルを見上げ、彼の言葉を待った。
 二人して荒い呼吸をつづけ、見つめあう。少しシュールな光景だった。

「…きみが、わるいんだよ」

 絞り出したような、ヴィクトルの震えた声音は、わたしの予測しえない言葉を発した。
 突然寝床から引っ張り出され、有無を言わさずホテルに放り込まれ、今の今まで好き放題に体をこじ開けられていたのはわたしのほうなのに、ヴィクトルはまた、その宝石みたいな瞳から、この薄汚れたホテルの一室にはまるで見合わない美しい涙を零さんとしていた。

「俺が、こんなに。これだけ君のことを愛しているのに、どうして、きみは、わかってくれない?」
「…、はぁ、はっ、わかってるよ…」
「うそだ、分かってない!この指だって、髪の毛一本だって、誰にも触れさせたくないのに!それを君はわかっていないんじゃないか」
「…?ヴィクトルの、言ってることがわからない…」

 こっちは疲労困憊で言葉を発するのだって一苦労なのだ。それなのにヴィクトルは駄々をこねる子供のように眉をしかめ、どんどんと表情を曇らせていく。

「分かってないから、勇利とあんなことをするんだ」
「あんな、こと、って」

 ああ、やっぱり。ヴィクトルは、どうやらわたしと勇利くんが仲睦まじそうに触れ合ってストレッチに勤しんでいたことに嫉妬心を抱いていたようだった。
 ヴィクトルがようやくわたしの体内から自身を引き抜いてくれた。その刺激には思わず瞳を堅く瞑った。そして次の瞬間には腕を引かれ、起されたところを強い力で抱き締められた。ヴィクトルはしくしくと泣いていた。可哀相な気持になるけれど、可哀相なのはたぶんわたしのほうであるはずだ。自分の手首を持ち上げて見てみると、強く握られ続けたせいで、やはりそこにはくっきりと欝血痕が残っていた。その手で、ヴィクトルの背中に触れた。

「もう、何百回って言ってるのに、ヴィクトルはどうしても、わたしを信じられないの?」
「違うよ、信じてるよ。でも、やっぱり嫌なんだ。それがたとえ勇利だったとしても…」
「わたしだって、こんなにヴィクトルのことが好きなのに、毎回こんな乱暴にされてたら、さすがに疲れちゃうよ…」

 その言葉には、ヴィクトルははじかれたように顔を上げた。あ、まだ泣いてる。

「ごめん…ごめんよ…、本当にごめん。いきなりこんなところに連れてこられてびっくりしたよね」
「うん」
「でも、どうしても我慢できなくって、ごめん」

 まあ、確かに、あの宿でこうも乱暴な手段に出なかったヴィクトルは、あのときはまだ冷静さを欠いていなかったようだ。だからといって、繁華街のはずれの、しかもこんな古びたホテルに連行されて、終始身動きを取ることも許されず甚振られるのは簡単なことではない。嫉妬心に支配されると、あれだけ優しいヴィクトルがここまで豹変するというのは、また新たな発見ではあるけれど、できれば次を迎えたくはないなと思った。ヴィクトルは許しを請うようにわたしに触れるだけのキスをした。不安そうな瞳は、わたしの言葉を今か今かと待っている。
 わたしは深い深いため息をつきたい心持ちだったけれど、それをなんとか呑み込んで、なんでもないように口を開いた。

「とりあえず、帰ろうよ」

 ヴィクトルの頬を撫でながら、つとめて優しく告げた。きっとまだ不安な気持ちでいるだろうから、今度はわたしのほうからキスをした。ヴィクトルはふるふるとまつげを震わせてから、わたしにさらに深いキスをしようとする。なんだかまたスイッチが入ってしまったようなヴィクトルが、一生懸命にこちらの唇に吸い付いてくる。呼吸までも奪われた。執拗に舌を吸い上げ、咥内を蹂躙する。後頭部を強く抑え込まれたところで、また彼にマウントポジションを取られると思って、徐々に倒れこんでくるヴィクトルの肩を押し返した。

「…んっ、あ、まっ、て。ねえ、こういうところで、あんまりしたくないな…帰らない?」
「そう、だよね、ごめん」

 はあはあと荒い呼吸をしながら、ヴィクトルは頬を上気させていた。それでもわたしの怪訝そうな表情に、彼はなんとか我を取り戻した様子だった。ヴィクトルの蜘蛛の糸ほど細い理性のようなものに感謝しながらほっと胸を撫で下ろした。ヴィクトルは恐々とわたしの肩に触れ、腕を滑り、そのまま下降して手を握り締めた。お互いがようやく取り乱した呼吸を落ち着かせ、平生に戻った瞬間だった。ヴィクトルは俯き、ぼんやりと握り締めたわたしの手を見つめていた。

 それからしばらくして、ヴィクトルに手を引かれてホテルを出た。先ほどとは別人のような力加減で、恐る恐るといった感情が指の先から伝わってくるようだった。時刻は夜中の3時くらい。どこもシャッターが下りており、肌が痛くなるほど空気は冷たい。シャッター街の空を見上げると、思っていたよりずっと綺麗な星空が広がっていた。吐く息が大きな白い靄になって星空に消えていく。

「ヴィクトル、見て、空」
「え?」
「綺麗だね」
「うん」

 手を繋いで、夜中、星空を見上げて歩くだなんて、付き合いたてのカップルみたいだと思った。まるでわたしたちには似つかわない初々しさがあって、ちょっと変な感じがした。

ヴィクトルはこくりと喉を鳴らしたあと、意を決したように口を開いた。

「ごめん、今日のこと。いきなり、怖かったよね。でも、抑えられないんだ、こんな子供みたいな稚拙な嫉妬心を。今までこんなこと、経験したことなくて、どうしたらいいか分からないんだ」

 きっと女性経験もわたしが考えうる以上に豊富であろうヴィクトルが、ほとほと困り果てたようにそんなことを言うものだから、顔には出さなかったけれど、それはとてつもなく嬉しくて、すこし恥ずかしかった。

「醜いだろう、こんな俺。子供みたいで、女々しくて、幻滅しただろう」

 ヴィクトルは本当に捨てられた子犬のような顔をしてそう告げた。醜いだって、この存在そのものが奇跡みたいな、美しい男はそう言った。わたしを想う気持ちに見境がつかなくて、制御がきかないと言う、彼を、いったいだれが醜いと言うだろうか。世界中のどこを探したって、そんな人はいない。愛おしくて、愛おしくて、仕方なかった。完璧であると、勝手に偶像立てた彼が、不完全で、未完成であることが、愛おしかった。

「ヴィクトルは、本当に馬鹿だ」
「…へ?」

 ヴィクトルの手を強く引く。目の前に引き寄せて、その瞳を覗き込んだ。星空みたいな、美しい瞳だった。

「わたしのことを信じて。わたしは、ヴィクトルが全てなんだよ、醜いだなんて言わないで、ヴィクトルがいてくれたら、わたしはそれでいいの、それが幸せなんだよ」

 わたしの言葉を信じてほしい。
 そう告げると、ヴィクトルの星空の瞳からほろり、と星の粒が落ちた。流星みたいだった。涙は、とてもとても美しかった。

「うん、ありがとう」

 腕を引き寄せられて、とても優しく抱き締められた。冷たい銀色の髪の毛が、ぱらぱらと首筋に落ちてくる。泣いているのかと思ったけど、顔をうずめられてその表情をうかがうことはできなかった。背の高い彼の、薄く均整のとれた背中を優しくさすった。どこまでも美しくって、優しくって、愚かで、可愛いヴィクトル。ほんの数時間前のぎらぎらと瞳を輝かせてわたしを強姦していた彼とは、もはやまったくの別人だった。ぴったりと密着したわたしたちの間からお互いの呼吸が漏れて、白い靄が広がった。深い黒の星空に、音もなく溶け込んでいく。
 他にはだれもいなくて、音もなく、冷たい世界で抱き合うわたしたちは、その世界に他のだれもいないものだと思った。

「日本に来て、よかったなって思うことを、毎日たくさん自覚するんだ」

 わざと遠回りをして勝生家へと戻る道中、ヴィクトルに握り締められ、そのコートのポケットの中に仕舞われた指先に少しだけ力を込めた。わたしがきんと澄み切った星空を見上げる横で、ヴィクトルは「うん?」と首をかしげる。

「ヴィクトルが毎日とっても充実しているところを見れること、ヴィクトルオタクの勇利くんからいろいろな話を聞けること。ヴィクトルと勇利くんが一生懸命になっている姿を見れること。今日みたいな、必死なヴィクトルを見れたこと、とかね」
「…もう、からかわないでよ」
「ロシアにいたときは、こんな乱暴で必死なヴィクトル見れなかっただろうし」

 ヴィクトルの白い頬は、この寒さのためだけではない朱色が差しているようにも見えた。恥ずかしそうに目元を覆って、「ごめんって言ってるだろ」と先ほどわたしがしたみたいに、ポケットの中の指先にぎゅうっと力を込めた。長身の銀髪の青年と、かたやパジャマにコートを羽織った女が歩いている光景は、今が昼の時刻であればきっとこの長谷津町中の噂になるであろうほど不思議なものに違いないと思った。
 
「寒いねえ」
「…帰ったら、一緒に寝よう」
「え?ヴィクトルのベッドで?」
「そうだよ、ここのところ、ベッドどころか部屋だって別室だろう」
「そりゃあ居候させていただいている身なんだから、男女が別の部屋なのは当たり前でしょ」
「俺はそれじゃあイヤなの!毎日隣にいて、抱きしめて寝るのがいつもだったじゃないか。もう今日は絶対離さないからね」
「…はいはい」