世界で一番無垢で、世界で一番愚かな君へ

あまりにも強い意志を孕んだ視線はまるで矢のように感じられ、そして突き刺さるたびに本当に痛みさえ覚えてしまう。調査兵団、人類最強と謳われるリヴァイ兵長の指揮するこの班に配属されてから、俺は幾度も幾度も視線の矢を受け取った。その視線の主を確かめようとしても、俺が振り返る頃にはこちらに視線を注いでいるような暇人は誰一人としておらず、誰とも視線がかち合わない。それでもやっと最近になって、それがあの眼帯をしている少女によるものだろうという推測が立てられた。だいぶここに馴染んでいるから先輩なのだろうが、如何せん体の大きさと顔の作りが幼いために、自分より大分年下に感じてしまう。 彼女のことを意識的に目で追うようになって、彼女がほとんど誰とも言葉を交わさないことや、あまり食事を取らないことを知った。相手が女性であるということもあって、彼女のことをペトラさんに聞くことにした。事の旨を伝えると、ペトラさんはああ、と納得したような、困ったような、面倒くさそうな苦笑を浮かべてから言った。

「あまり面倒ごとは起こさないことね。あと、リヴァイ兵長としゃべる時は、周りをよく見ること。」

まったく言葉の意味が理解 できなくて、それでもリヴァイ兵長というワードが出てきたことに少し驚いた。リヴァイ班ではないはずの彼女に、兵長がどう関係しているのだろうか、と単純に興味を抱いた。手っ取り早いのは兵長に直接問うてみることではあるが、せっかくペトラさんがくれた忠告を無下にはできない。悩んでいる間にまた数日が過ぎ、俺は結局突き刺さる視線の矢を止める手立てを掴めずにいた。

事態が急変したのは、食堂で偶々兵長に鉢合わせた日のことである。今日も今日とて付き合わされるハンジさんの実験について、次の壁外調査の日程について、かなり簡単に言葉を交わしてから席についた俺は、そのときになってはっとした。隣の椅子が引かれる音が聞こえた。

「エレン、イェーガー?」

初めて間近で見る彼女の顔立ちは、思いのほか整っており、片方が欠けている瞳はまん丸で大きかったため、同期のクリスタ・レンズを髣髴とさせた。無論、彼女と比べるには、目の前の少女はあまりにも生気が感じられず、瞳に光りは宿っていない。

「あ、はい」

見れば見るほど彼女が年下の少女にしか見えなかったが、いちおうは上司なのだろうと思って敬語で返す。立ち上がろうかとも思ったが、彼女がすぐに腰を下ろしたのでそれはやめた。座ると更に小さくなる彼女が、俺の目の前に置かれている皿の中のスープを眺めてから、こちらを見た。ああ、この目だ。この視線である。そこで初めて気付いた。視線に込められていた、強すぎる意志というのが、明確な殺意であったということに。背中にひやりと冷たい汗をかいた。
周りの人はだれも俺が彼女と対面していることに気付いていない。気付いてくれと、心の隅で願った。だれか、誰でもいい。俺に向けられている重すぎる殺意に、俺が置かれている絶対的な生命の危機に、誰でもいいから気付いてほしいと思った。彼女はなんてことないようにポケットからナイフを取り出し、その刃を指でゆっくりとなぞる。

「巨人になるんでしょう、あなた」

ごくりと生唾を飲んで、俺はまともに返答すらできなかった。壁の中で、しかも調査兵団の本部の食堂という、あまりにも安全が確立された空間で、俺にははっきりとした死のビジョンが思い浮かんだ。

「どうやって巨人化するの?」

くるりとナイフの刃をひっくり返して。彼女の右目がこちらを捉えた。

ガタン、ガタン!と激しい音が響くのと、俺が椅子から転げ落ちて尻を強打するのはほとんど同時だった。思わず瞑ってしまっていた目を恐る恐る開ける。見えた光景には、俺は口を情けなく開けて某然とするほかなかった。今しがた俺の頭があったと思われる位置より、僅か手前に突き出されているナイフを握った小さな手。その腕を更に掴む腕があって、いつの間にか彼女の背後には目を見開いた兵長がいた。兵長のつま先がこちらに向けられているのを見ると、俺の椅子を蹴り飛ばしたのは恐らく彼である。たぶんそれがなければ今頃俺の額には、あの白く光るナイフの刃が突き刺さっていたことだろう。

「おい」

何度か耳にした兵長の地を這うような声が、しんと静まり返った食堂に響いた。

「俺がいつこのガキを殺せと命令した?」

この人なら恐らく視線で人を殺せるのだろうな、と思わざるを得ない瞳だった。彼女はカタカタと震えだし、緩慢とした動作で兵長に視線を投げる。それから大きな瞳にいっぱい涙を溜めて、一度だけ俺のことを見下ろした。泣きたいのはこっちだよ、馬鹿女、とは喉まで出掛かった言葉ではあるが、恐らくそんなことを言えば今しがた椅子に食らわせた兵長の蹴りが俺の顔面にお見舞いされるだろう。関節が抜けてしまうのではと心配されるほど掴んでいる腕を強く引っ張って、兵長は彼女を引きずるようにして食堂をあとにした。兵長の姿が見えなくなって三秒、ようやく食堂内に張り詰めていた緊張の糸が解かれ、各々が食事を再開する。呆然とへたりこんだままの俺は、すぐさま駆け寄ってきた人物から差し伸べられた手に顔を上げる。

「大丈夫?エレン」

ペトラさんは顔を真っ青にしてこちらを覗き込んでいた。彼女の手を借りて起き上がった俺は、とりあえずと蹴飛ばされた椅子を元に戻して腰を下ろし、はあああ、と固まった息を吐き出した。いつの間にかペトラさんの横にはオルオさんとエルドさんの姿があった。

「怪我とかしてない?」
「あ、はい…だいじょぶです」
「ったくあの女、やっぱり手ェ出しやがったな」

オルオさんが忌々しげに呟いて、俺の正面に腰を下ろす。二人も続いて席についてから、やれやれと頭を抱えていた。

俺は知っている。あんな視線を投げられる理由も、殺意を抱かれる絶対的な理由も。最近は淡々とトレーニングだの実験に参加していただけだったから、忘れてしまっていたが、あの審議処での、俺に向けられた数多の殺意や畏怖の視線は俺の脳裏に焼き付いている。みんな恐れている。そして憎んでいる。巨人である、俺を。たぶん、彼女にも例外ではなかったのだ。巨人であるというあまりにも明確すぎる不穏分子を、その手自ら抹消したかったのだろう。そんな自分の待遇に慣れることはなかったが、悲しいと思う気持ちは確実に以前より小さくなっていると思う。 彼女の行動には驚いたし悲しいとも感じたが、どこかで仕方ないと考える自分もいて、思わず苦笑した。
俺の苦笑を見つけたペトラさんが、あのね、と困ったように眉尻を下げた。

「彼女がエレンを殺そうとしたのはね、」
「いや、分かってます。そりゃあいつ巨人になるかも分からない人間が近くにいて、殺そうと考えるのは異常ではないですよ、たぶん…」
「違くて、あの、そうじゃなくて…」
「彼女はな、多分お前の監視役が兵長だから、殺そうとしたんだよ」
「…は?」

言いづらそうに言葉を濁すペトラさんに代わって、エルドさんが口を開く。彼の言葉には、純粋に疑問符しか出てこなかった。

「あの女は異常だ。狂ってやがる。あの女の全ては兵長なんだよ。だから兵長がお前にばっかり手を掛けるのに腹が立ったんだろうよ」
「手をかけるって…そんな、俺はなにも…ていうか、彼女は?」
「あの子はね、多分エレンに嫉妬していたのよ。嫉妬なんて可愛いものではないけどね。彼女はほんとう、オルオの言った通り、兵長がすべてなの。兵長がいるから 調査兵団に志願して、兵長に褒められたくて、例え左目を失おうとも生きて帰ってくる。心臓を、人類に捧げたわけではないのよ」
「まあエレンが巨人だから殺そうとしたってのも全く理由に入っていないわけではないと思うが、あくまでそれは後付の理由だ。脅威であるエレンのそばに兵長がいる、それが許せなかったんじゃないかな」

そんなに落ち着き払って語る話なんだろうか、これは。一人顔を青くする俺を他所に、三人はそれぞれ困ったように肩を竦めていた。

「あ、でも勿論何度も壁外調査から戻ってくるだけあって、彼女、かなりの実力者なのよ」
「確か、この間のを合わせたら討伐数16体になるんじゃなかったっけか」
「は、16?!」
「補佐は更に多いわ、彼女の巨人を殺すという行為は全て兵長に捧げるものなの」

呆気に取られた。あんな、俺より背が小っちゃくって、ひょろひょろの女が。
そのとき、俺は小さな違和感を心の中で拾って、言葉に出した。

「それで、そんな彼女を、兵長はどうされているんですか?」
「どうって…」
「鬱陶しがったりとか…兵長のことだし、重く感じそうですよね」
「そうなんだけどねー」

ペトラさんは伸びをする容量で腕を頭の上に持っていき、やっぱり困ったような表情になった。

「それは、自分の目で見たら分かると思うわよ」

そのあとすぐに兵長から呼ばれて、彼の部屋に向かった。必要最低限のものしか置かれていない部屋は、その分緊張感がたっぷりと蔓延していて、思わず息が詰まりそうなほどだった。

「さっきは悪かったな」
「あ、いえ…」

まさか彼女のしたことについての謝罪を兵長から受けるだなんて思いもしなかったため、上ずった声が出てしまった。ほんとうに、一体兵長は彼女のことどう思っているのだろうか。実際に結果を残しているし、少し手のかかるただの一団員としてカウントしているのか。すぐに俺は、それは否だと思った。あの兵長がこれ だけの騒ぎを起こす面倒な女に何も感じないわけがない。それとも逆に、兵長は彼女に何か後ろめたいことでもあるのか。
兵長は無表情に近い顔をしたまま、俺のことを捉える。

「誰かから聞いたかもしれんが、まあ、あいつはああいうやつだから、注意はしておいたがお前自身も気を抜くなってことだ」
「はぁ…」
「気の入ってねぇ返事だな」
「あ、すいません…いや、その」

ずいぶん彼女には優しいんですね、兵長。なんて口が裂けても言えなかった。そのまま戻っていいと言われ素直に踵を返したが、やっぱり胸の奥につっかかるそれを声に出してしまいたくて、俺はくるりと振り返ってもう一度兵長を見た。

「あの、兵長」
「なんだ」
「その、違ったら申し訳ないんですけど」
「…」
「ほんと、俺が勝手に思ったことなんですけど」
「さっさと言え」
「兵長はその、なにか、彼女に負い目とか…あるんですか?」

兵長の表情の変化は日頃から希薄であるとは感じていたが、そのときだけは確かに驚いたように一瞬だけ目を丸くした。やはり今の言葉は不味かったか、と思ったが、兵長はすぐに何事もなかったかのように元の表情に戻ってなぜそう思った、と口にした。

「え、あの…いや特に理由はないんですけど」
「理由もねぇのに憶測を立てるのか、エレンよ」
「あっ、…あの、すいません」

何を言っても結果は同じだと思って、とりあえずと謝罪しておく。兵長は少し考えるように視線を手元に彷徨わせてから、こちらを見る。

「もういい、戻れ」
「はい、失礼します」

部屋を出てから、ハンジさんの付き合って欲しいと言われていた実験を開始する時刻が迫っていることに気付き、慌てて走り出した。
負い目があるのかと聞いたとき、兵長は否定しなかった。しかしその理由を知りたいと思うよりも、ナイフを持った彼女の瞳を恐ろしく思う気持ちの方が強かったので、俺は考えることを放棄した。

翌日の食堂で、一人こそこそと食事をとろうとした俺のもとに彼女はやってきた。思わず身構えてしまうのは仕方ないことだろう。視界の端ではペトラさんが注意深くこちらの様子を伺っている。昨日よりは危険が少ないと思われる状況下、彼女は俺を見下ろし、そして一度息を吐き出してから口を開いた。

「昨日は、ごめんなさい」

その謝罪が彼女自身の言葉ではなく、俺に謝ってこいと兵長から命令されたからであろうと感じたのは、彼女の瞳にごめんのごの字も感じ取れず、寧ろ次は仕留める、と言わんばかりにギラギラと光っていたからである。

気を抜いたら、次は本当に殺される。そう思った。