世界で一番眠れない場所

緊張と不安と、戦闘によるそれらに似た高揚感は深い眠りを与えてくれない。眠れないわけではないのだが、僅かな物音でも目が覚めてしまう のだ。故に朝日が登る時頃には意識せずとも自然に起床することができるので、誰よりも早く行動を開始することができる。訓令兵時代はそれでよかった。後か らのろのろ起きてくる連中が教官にどやされているのを横目でほくそ笑むことができたのだから。しかしここでは違う。俺がどんなに誰よりも早く目覚めようと も、この手枷の鍵を開錠する人間がやってこなければ俺の朝はやってこない。窓のない地下室の自室で、俺は覚醒したままやることもなく、この手枷を外してくれる担当の人間がやってくるまで無駄な時間をやり過ごさなければならないのである。基本的にはリヴァイ班の誰かか、たまにハンジさんや兵長自らがやってきたりもする。初めて見る顔の団員の場合だと、ただ鍵を外すだけの行為なのにまるで俺と同じ部屋にいることが一秒でも耐えられないといった様子の連中が多いため、そんな日は朝から気分が下がる。明日は誰が担当なのだろうか、そう思案して眠りについたのが昨日の夜である。
はっと目覚めた瞬間、視界の端 に人影を捉えて慌てて起き上がった。俺が目覚めるより早くこの部屋にやってきた人間なんていない。人影に驚いて体を起こした俺は、今度その人物におどろいて目を見開いた。身体が強張る。起床後、僅か三秒。俺の身体中の神経はまるで巨人と遭遇したときのようにビリッと全身を駆け巡った。

「エレン・イェーガー、手を。」

まるで家畜に向けるような瞳でこちらを見据えるこの女は、紛れもない、誰よりも強い殺意を俺に向ける、あの女だった。名前をまだ知らないので、俺は勝手に眼 帯さんと呼んでいる。小さな顔にいつまでも張り付いている眼帯は、見る者に中々の違和感を与えるからだ。目を覚ましてまだたった数秒だというのに俺はあまりの動揺と緊張感に、走り込みを終えた後のような胸の窮屈さと鮮明な意識を覚える。

「手を。」

彼女はもう一度、先ほどよりほんのわずか強い口調でそう言った。その言葉に慌てて両腕を彼女に差し出した。こんな無防備な格好で、俺はいまこの瞬間に殺されてしまうんだろうか、とやけにはっきりとした 最悪の光景を思い描いてしまった。しかし彼女は伏せ目がちに俺の手枷を確認して開錠するだけだった。用が済むと俺には一瞥もくれず、さっさと部屋を後にしてしまう。軽くなった手首を摩りながら、俺は何が起きたのか今だに理解できないまま彼女が出て行った自室の扉を見つめた。

今日からしばらくエレンの鍵を外すのと、つける担当、彼女に任せたんだ。朝一番でハンジさんが思い出したようにそう告げた。何がどうなってなぜこの経緯に至ったのかも勿論知りたいところではあるが、こういうことは昨夜のうちに伝えておくべきではないかと俺は彼女に詰め寄った。

「いやーごめんごめん、すっかり忘れててさー」
「俺朝から本気で殺されるのかと戦慄したんですからね!!」
「でも大丈夫だったでしょ?彼女」
「確かに何もされませんでしたけど…目線で殺されるかと思いましたよ」
「ハハッそれは間違いないかもねー」
「笑い事じゃないですよっ」

気の弱い人間なら目覚めた直後に再び強制的に夢の世界へ飛び出たされんばかりの瞳だったと思う。俺の重い溜息に、本気で悪いなんて微塵も思っていないハンジさんがぽんぽんと肩を叩いた。

「命令されたからさ」
「え?」
「彼女。リヴァイにさ。エレンには絶対手を出すなって。だから君の身の安全は保証されているよ。」
「その割に殺意隠しきれてませんでしたけどね。」
「そこは彼女の意思が死んでいないだけの話でしょ?」
「そもそもなんでそんな彼女が開錠係りになったんですか?」
「団長がさ」
「えっ、エルヴィン団長ですか?」
「エレンと彼女の間の不穏な空気をどうにかしたかったんじゃないかなー?」
「かなり一方的なやつですよ、それ」
「それでも毎朝エレンを起こしにいく役目を課されれば彼女にも気持ちの変化が出てくるだろうと期待してるんでしょーねー」
「はあ」

つまり俺はこれからしばらくあの生きた心地のしない朝を向かえなければならないということか。朝からとんだ重労働だ。

それからというもの、本当にハンジさんの言葉通り彼女は俺の手枷を外しに毎朝、そして鍵をつけるために夜、部屋にやってくるようになった。それも朝の場合、俺が目覚めるより少し早い時間にやってくる。俺の起床時間に以前と差はないため、彼女の行動がやたら早いのである。彼女がいつやってきて、それから俺が目覚めるまでどれくらいの時間があるかなど知りもしないが、完璧に無防備に寝ているときに彼女が傍にいるというのはかなり心臓に悪い。それも俺が知り得る範囲外のことであるため、余計に気味が悪かった。俺の首を、項を見てナイフでも構えているんではないだろうか。うっかり巨人化なんてしてしまったら間違いなくなんの躊躇いもなく殺されるのだろう。夜は夜で俺が地下室までの階段を降りてくる最中にいつの間にか背後に忍び寄っていて、何度か絶叫しかけたこともあった。本当に手枷の施錠を行うだけで、呼吸をしているのかも怪しくなるほど静寂を守る彼女はすぐに部屋から消えていく。朝晩と肝をひやりと冷やされるような 日々は、それから数日続いた。
その日も吐くほど厳しい訓練を終えて、ようやく部屋に向かおうとしていたときだった。時刻はたぶん、深夜を回る少し前くらい。地下室へ続くこの階段付近はわりと荷物が散乱していて、翌日に控える別の訓練で必要となる道具を取りにくる人間とよくすれ違う。恐らくあの潔癖 性の兵長が見たらとんでもなく嫌そうな顔をするに違いない、物置みたいなそこに、その日、三人ほど男がいた。例のごとく何か荷物を探している様子の彼らの 横を通り過ぎ、階段へ向かおうと最中、突然背中を蹴り飛ばされた俺は顔面からいきおいよく埃被った床にダイブした。何が起きたのか理解できないまま慌てて身体を起こすと、荷物を漁っていた三人の男がこちらを見下ろしていた。その瞳にゆらゆらと憎悪を含ませながら。痛む鼻を摩りながら、彼らを見上げた。

「おい、これがあれだろ、例の、巨人化するっていうガキだろ」
「ほんとにただのガキじゃねぇか。」
「兵長も団長もこんなガキに何を期待してんだか。」
「俺らもこんなわけのわかんねぇガキに心臓握られてんなんざ、納得いかねえよな。」

俺を卑下するひとみ。ゴミのように、家畜のように、そして親の仇に向けるような瞳があった。以前だったら突然の理不尽な罵詈雑言に、痛いほど自分の立ち位置を思い知って沈み込んでいただろう。しかし、つい最近彼らの比ではないほどの明確な殺意を孕んだ瞳の少女に殺されかけたこともあって、俺はこの男たちに対して大した感情を抱くことはなかった。調査兵団にもまだこういう連中がいたんだな、とか、まだ生き残っていられたんだな、とか。それぐらいのことしか思案 出来なかった。

「おい聞いてんのかよ!ガキ!」

日頃の鬱憤だのの捌け口を俺にしよう、ただそれだけの魂胆なのだということはすぐに分かった。 頬を硬いブーツで蹴られて、口の中に鉄の味が広がった。いつ死ぬかも分からないこんな場所にいるのだから、訓練しているだけの毎日にだってストレスは積み 重なっていくことだろう。俺を殴ったって、蹴ったって、俺に同情する人間などいないことをこいつらは理解しているのだ。馬鹿みたいだな、と思った。理不尽な暴力に思わずこちらからも手が出てしまいそうになるが、そんな行為によって俺を理由はどうあれ生かしてくれている兵長や団長の立ち位置を悪くすることは できないと思った。俺に軽蔑だの侮蔑の視線が集まるのは仕方のないことであるのだ。
何故、俺はあの眼帯女の存在を忘れていたのだろうか。階段を降り始めれば途端に背後に現れるあの女が、何故今ここにいないなどと考えなかったのだろうか。バキッと派手な音がして、俺の頭の上に乗っかっていたブーツの 重さが消えた。顔を上げると、丁度横顔だけの彼女の眼帯が薄暗い蝋燭の灯りに照らされていた。

「何しているの」

彼女を見た瞬間、男たちの纏う空気が変わった。彼女の奇人っぷりは調査兵団内でも公認なのだということを理解する。恐らく彼女に殴られたか蹴られただかした男が床に転がったまま、豚みたいに怒鳴り散らす。

「テメェ!!兵士長のお気に入りだかなんだかしんねぇが調子乗ってんじゃねぇぞ!!」

彼女は何処吹く風の様子で俺に視線を投げる。床に転がる男とは別の男が、ふっと鼻を鳴らした。明らかに彼女に怯えているくせに、やはりこんな小さな少女に屈服するのが癪なのだろう。少しでも知能が働く人間だったならば、すぐさまこの場を退散するという選択をしていただろうに、彼らはその知能がないほうの人間だった。

「兵長もこんな得体の知れないガキ共のお守りしなきゃなんねぇなんてな。」

たぶん、その後には彼への侮辱の言葉が続いたのだろう。それが続かなかったのは、男が床に叩きつけられて肩を思い切り踏みつけられたせいである。俺は彼女のあまりにも素早く無駄のない動きに感心する一方、この少女の前で兵長の陰口を叩こうなどと考えた男の浅ましいほどの愚かさに驚いた。こいつ、本気で自殺願望を持っているのだろうか。彼女の手には小さなナイフが握られており、それが男の顔に突きつけられている。あんなに細くて軽そうな足に見えても、あれだけの勢いと力を加えて踏みつけられたのならば、肩を脱臼くらいはしているかもしれない。ブーツもかなり硬い。男が無様に叩きつけられた様を目の当たりにして、もう二人の男が目に見えたように狼狽する。

「テメェなに考えてやがる!こんなとこでテメェみたいなやつが騒ぎ起こしてタダで済むと思ってんのか!」

そんな言葉、彼女の鼓膜さえ揺らすことはできないだろう。この女は、兵長の名前が出た瞬間にもう瞳をギラギラと滾らせていた。彼女は兵長が侮辱される、ただそれだけが許せないのだ。結果としてもしここで三人の男を殺してしまったとしても、彼女はなんの意も介さないだろう。なぜ彼らはそんなことにも気付かないのか。本当に死んでしまうかもしれない、壁外にいるときのような生命の危機に、何故気付けないのか。

「そんな小せぇナイフでどうすんだよ。」

明らかな動揺を押し殺しつつ、押し倒された男が歪んだ笑みを浮かべた。確かにあのお粗末なナイフでは彼の硬い皮膚を破って頚動脈を貫くことは難しい。ナイフの小ささに気付いた他の男たちにも僅かに余裕が生まれたように見えた。彼女は一度だけ瞬きをした。

「このナイフで貴方の眼球を突き刺し、引き摺り出し、引き千切って、わたしのこの足でグチャグチャに踏み潰すことくらいはできる。」

ぞわり。彼女の抑揚もない、恐怖だけを孕んだ言葉に男たちが言葉を失った。それでも彼女が本気でそれを行動に移すことがないと高を括る男が、虚勢のつもりなのか、小さく噴き出した。

「できないと、思うの?」

彼女の瞳が光った。間違いない。この女ならやる。今、ここで。

「あの!」

俺の声に、眼球のほんのわずか手前でナイフが止まる。

「部屋、行きましょう。もう時間も遅いですから。」

俺の鼓動は早かった。汗もじんわりとかいている。彼女は思い出したように顔をあげ、素直に俺の元へやってきた。そのまま無言で階段を降りる。男たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げて行ったに違いない。バタバタと騒がしい足音が頭の上から聞こえた。俺の目の前で、本当に人が一人死ぬところだった。その漠然とした事実に俺は動揺を隠しきれなかった。彼女の恐るべき行動力と、躊躇のなさ。兵長への病的なまでの崇拝心。手枷の鍵を嵌めた彼女は、いつもとなんら変わり がない様子でなにも言わずに部屋を出て行った。ここまでの問題児を兵団が野放しにしておくというのも、やはり彼女という戦力を失いたくないという意思が働 いているのだろう。彼女の秩序を乱しかけない行動よりも、実績と戦力のほうが重要視される。調査兵団はやはり変人集団だ、と俺は毛布を頭からかぶって瞼を下ろした。

翌日のことだった。俺はハンジさんの実験を終えて兵長の部屋へ報告に向かっていた。長い廊下を突き進んで、最近は見慣れてきた兵長の執務室の前で足を止める。ノックをしようとしたところで、俺は昨日の出来事を思い出して、それをやめた。昨日のことを、兵長に報告すべき か。彼女の迷いのない瞳が脳裏に呼び起こされる。しかしここで悩んでいたって仕方ない。報告を怠ってなにか状況が悪化しても不味いので、とりあえずあった ことを話すだけ話そうと思った。余計な報告だったら兵長に煙たがられるだけ。それでいい。今度こそノックをしようとした俺は、しんと静まり返る廊下でふとした物音を拾った。物音はこの扉の奥からである。誰か先客でもいるのだろうか。非常に珍しいことに、扉はほんの僅かな隙間を作って開いていた。音を立てな いよう、俺は最善の注意を払いながら少しだけ、扉を押した。先客がいて、何か取り込み中だったらあとにしよう。そう考えただけの結果の行為だった。何ら間違ったことはない。確かに覗き見するような形で中を確認するのは良くなかったかもしれないが、これは俺なりの気遣いだったのだ。そっと室内を確認して、誰かいたら、来た道を戻る。それだけだった。

「んっ、ふ…」

全身の血が騒いだ。目を見開く。俺は眼前に広がる光景に、文字通り息を飲んだ。

兵長が、椅子に腰掛ける件の眼帯少女の顔を両手で包み込み。
キスをしていた。
それも何度も何度も角度を変えて、呼吸すら飲み込んでしまいそうな、激しいやつ。彼女は顔を真っ赤にして悩ましげな吐息を時々漏らした。俺は見てはいけないものを目撃してしまった背徳感と、すぐさまその場を離れなければならないという根拠のない使命感に襲われた。足は、動かない。視線を反らせない。必死で兵長からのキスを受け入れる彼女から、視線を外せなかったのである。なんだろうこれは。頭の、一番遠いところでそんな疑問が生まれた。まるで自分の思考ではないと感じてしまうほど、遠いところで。
顔を真っ赤にする彼女は今まで見たことがないような羞恥を称えた表情でぎゅっと瞳をつむっている。手も丁寧に膝の上で固く握り締められているだけだった。無論、俺が見たことがある彼女の表情というのが無表情か殺意の孕んだものだけではあったが。あんな顔ができるのか。どくりと心臓が鳴った。

「へっ、ちょ…ん、」

あんな高い声、出るのかよ。まるで親鳥が雛鳥にしてあげるみたいに、座ってかなり低い位置にある彼女の顔を両手で掴んで兵長は執拗にキスを施した。
一旦顔を離した兵長を、熱の篭った瞳で見つめる彼女は俺の知っている、頭のおかしい眼帯女ではなかった。

「ありがとうございます…っ」

眉を顰める。今のは、何に対しての感謝なのか。兵長は一瞬の間を置いてから、今度彼女の頭を撫で付ける。

「いや、よくやった。ここでもまだ、エレンのことを良く思ってない連中のが多いからな。」

自分の名前が上がったことに思わず物音を立ててしまいそうになるのを慌てて押さえ込んだ。唇を噛みしめる。ああ、そうか。彼女、昨晩のことを兵長に報告したんだ。それで、兵長は身を挺して俺という巨人の謎を解けるかもしれない手がかりを守ったことを褒めてやっていたんだ。あのキスは、『ご褒美』なのだ。待てを言いつけられた子犬みたいな従順さで椅子に座ってひたすら兵長を見上げる彼女は、まだ褒美を強請っているようにも見えた。貪欲、敬愛、崇拝、心酔。俺が彼女という個体から感じ取ったそれらの感情は、俺には初めて目の当たりにするもので、それはあまりにも衝撃的だった。兵長は指で彼女の米神を軽くさすってやってから、また唇を吸い上げた。きゅっと目を瞑っていても、彼女の顔に歓喜が溢れ出ていることは容易に分かった。

その夜、俺の手枷の施錠をしにやってきた彼女は、昨日までの彼女とはまったく別人に思えた。表情も動きも、昨晩となんら変わりはないはずなのに、俺の脳裏にはどこかであの熱に浮かされた表情の彼女がちらついていた。俺の手枷に、彼女の白い指が触れる。

「俺を助けたのも、兵長に褒められたかったからだったんですね」

ひゅっと息を吸った。思考していないはずの言葉が、音になっていた。彼女の動きが止まった。こちらを見る、ひとつだけの瞳。

「兵長にキス、されて、あんなに喜んで…よかったですね、俺のお陰で、ご褒美をもらえる」

たぶん、虫の居所が悪かったのだろう。俺は勝手にそう結論付けた。別に昼間に目撃してしまった光景について彼女を問い詰めたかったわけじゃあない。あれは俺の世界とはまったく関係のない出来事だったのだ。それなのになぜ俺がこんなことを口走ってしまっているのかというのは、単にそのときの気分がすぐれなかっただけなんだと思う。あとから思い返してみても、それ以上の理由は見つからなかった。では何故、気分がよくなかったのか。それこそ多分、どれだけ思案しても答えは出てこないだろう。とんでもないくらい強くって、人類の羨望の眼差しを受ける兵長と。誰よりも俺に明確な殺意を持って俺を本当に殺そうとした頭のおかしいこの女が。犬とその飼い主みたいな関係であったことが、俺には滑稽に思えて仕方なかったんだ。

「本当は殺したくて仕方ないくせに…毎日ちゃんと課せられた仕事を全うして…それってぜんぶ、兵長に褒められたい一心なんでしょう?」

言葉が音になって自分の耳に届くたび、むかむかと腹の底が熱くなっていくのが分かった。何故自分はこんな地下室に閉じ込められなければならないのか。何故自分はあんな目を向けられなければならないのか。俺が一体何をしたっていうんだ。俺は何も悪いことなんかしてないのに!!

心の奥底でひっそりと感じていた劣情が、血が巡るようにして全身に駆け巡った。今まで溜まっていたそれらが、爆発しかけていた。多分、トリガーは彼女だった。彼女が朝晩傍にいて、言い様のないストレスを俺は感じていたんだ。仕方ないと思う。俺のことをいつ殺そうかともくろんでいる女が近くにいて、何も感じないほど俺も鈍感ではない。そして、昼間の光景が、そのトリガーを引いた。俺には殺意を向けることばっかりするくせに、自分は大好きな兵長とのキスに舞い上がっている。俺にはそれが許せなかったのかもしれない。溜まりに溜まったストレスを、俺はいつか発散させなければならなかった。それが今日、いまのこの瞬間になってしまっただけの話だった。

彼女の腕を掴んだ。細かった。もう少し力を込めれば、簡単に折れてしまうのではないかと思うほどには、細くて頼りなかった。こんな腕で巨人を屠るんだな、と思う自分と、何故俺はこんな貧弱な少女に怯えていたのだろうか、という認識が生まれた。腕を引っ張って、ベッドに押し倒す。ほら、こんなにも簡単に。俺はいま、彼女を殺せる。この腕とおんなじような細っこい首を握りつぶせば、彼女だって簡単に絶命するだろう。俺は何を今まで彼女に怯えていたのだろう。馬鹿みたいだ。こんな女。兵長にキスされて、馬鹿みたいに浮かれている、こんな馬鹿女。俺に向けたあの殺意しか篭っていない瞳、兵長にも向けてみろよ。なんで俺には、あんな目をしたんだよ。俺が一体何したっていうんだよ。

「ハハ…別人みたいでしたよ、兵長にキスされてる、あなた」

人間はあれほどまでに対極的な二面性を持ちうることが出来るのだと感心してしまった。今俺に組み敷かれてこちらをひたすら見上げる彼女の瞳には、兵長にキスされていたときのような熱は勿論まったく篭っていなかったし、初めて俺と言葉を交わしたときのような殺意も含んでいなかった。文字にするのなら、無。彼女の空洞みたいな右目が俺を捉えていた。この眼帯の奥の左目、もしかしたらもう無いのかもしれない。

「兵長によくやったって言われたいからって、ご褒美にキスされたいからって、…お、俺をそれの道具に使うなよっ!」

言ってやった。言ってしまった。俺は肩で呼吸をするほど、息切れしていた。
巨人化できることが判明して、誰もが俺を化け物扱いして。仲間はずれにされたくないと俺の幼心が叫んでいた。少しずつ積もっていった苦しみを、俺は何の関係もない彼女にぶつけて、楽になりたかったのだと思う。たまたま彼女はその標的になる得るだけの要因を持った都合のいい相手だった。俺だって分かっている。彼女が他の人間みたいに俺のことを巨人化できる脅威だから殺意を抱いたのではないということを。彼女はどこまでもリヴァイという男を心酔しているだけなのだ。知っていた。理解だってしていた。この身を持って思い知らされていた。だけど俺は、どこかで彼女をそのストレスの捌け口に使おうと考えていたのだ。これでは昨晩のあいつらと、何も変わらない。

はっとしてベッドから離れて狭い部屋の隅まで後ずさった。はぁはぁと情けないほど上がった自分の呼吸音が静かな室内に響いた。彼女はゆっくりと起き上がると、俺のことをじっと見つめてから「よかった」と呟いた。

「え…?」

その言葉には、ごちゃごちゃになった俺の心の中が更に掻き乱された。彼女は俺の手を引いてベッドに座らせると、本来の目的である手枷を嵌めて、がちゃんと鍵を閉める。俺の世界がこの地下室の一室だけに戻る瞬間だった。彼女は扉の前で一度踵を返して俺を見つめると、やはり抑揚のない声で言った。

「貴方の死体を処理する方法を、まだ思いついていなかったの。」

巨人に食わせるのが一番簡単かと考えたけれど、誰にもばれずに壁外に運ぶのは難しいと判断した。彼女はそう続けて、部屋を出た。くるりと踵を返して背中を向けたとき、その白くて小さな指の間からきらりと光るものを見つけて、俺はさっと血の気が引くのを感じた。今更になって鼓動が馬鹿みたいに早くなる。全身を恐怖が蝕んでいく。

明日、ハンジさんに俺の鍵の担当を彼女から他の人に変えてもらえるように頼み込もうと決意した。俺は近いうちに、自殺してしまうかもしれない。