世界で一番愛したあなたへ

 何もない人生だった。喜びも、愛情も、何も知らなかった。色のない人生だったのだ。
 だからあの人に会って、それから。わたしはあの人のためだけに生きたいと思ったし、この心臓は、人類にではなく、あの人に捧げた。指も、目も、髪の毛一本だって、ぜんぶぜんぶあの人に捧げた。あの人だけがわたしのすべてだった。死を恐れたことはなかったけれど、あの人に会えなくなってしまうことは、わたしに死ぬこと以上の恐怖と絶望を感じさせた。だから、死にたくないと思った。巨人と対する時も、死にたくないと思うのは、あの人の傍にいて、ずっとこの世界の終りまで一緒にいたいと思ったからである。

 はぁ。と、吐き出した息は白い靄みたいになって、わたしの顔のまわりをさまよったあと、消えた。両腕で一生懸命にお腹を押さえてもどくどくと溢れ出るそれは、とてもとても温かかった。反して、体は凍えるように寒かった。震えが止まらない。きぃんと耳鳴りも止まなかった。大木の根元で、その幹に背中を預けてうずくまって、もうどれくらい経ったのだろう。顔の見えない男たちに襲われて、剣で体を一突きにされてから、もう、どれくらい経ったのだろう。わたしのいのちは、あと、どれくらいもつのだろう。
 エレン・イェーガーと、ヒストリア・レイスを匿う小屋に、リヴァイ兵長はいる。秘密裏にその小屋へ密書を届ける役目、わたしは何日も前から今日の日を待ち焦がれていた。リヴァイ兵長が彼らと共に調査兵団本部を後にすると知ったとき、泣いてすがっても、あの人はわたしを連れて行ってはくれなかった。だから団長からあの小屋へ密書を届ける役目を言い渡されたとき、わたしは久方ぶりに生きた実感を持った。何度も何度も、尾行には気を付けて、最善の注意を払った。密書を届けるのは今日が初めてではない。もう数回は成功していた。そのたびに、兵長はわたしの頭を撫でて、褒めて、ほほ笑んでくれた。わたしはそのためだけに生きているんだと思った。だから今日、森の中で男たちに囲まれて、わたしは自分のお腹に剣が突き刺さる光景を、まるで他人事のように思っていた。一瞬のことだった。男たちは足早に撤退していったのは、その攻撃が致命傷になったのだと分かったからだろう。届けるはずだった羊皮紙は、わたしの血液に触れて、どんどんと赤黒く染まっていった。

 目を閉じる。ああ、こんなところで死んでしまうのか。できることなら、この世界の終りまで兵長の傍にいたかったけれど、調査兵団にいる身としては、兵長の目の前で、彼を守って死んでいきたかった。理想的なのは、巨人から兵長を守って死ねること。無論、あの人はわたしに守られるほどやわではないけれど。でも、こんな誰もいないところで、暗い森の中、ひっそりと、誰にも知られずに、静かに死んでいくのは、とても悲しいことだと思った。

 目の前がちかっ、と明るく光った。重たい瞼を持ち上げると、燭台の明かりを持った、坊主頭の男の子がいた。何かを叫んでいる。他にも誰かがやってきた。数名がやってきて、その中にエレン・イェーガーがいるのを確認した。彼らはエレン・イェーガーの同期で、新リヴァイ班の面々だ。みなが一様に驚いたような、絶望したような、言葉には表せないような表情でわたしを見下ろしていた。いつも密書を小屋に届けていた女が血まみれで倒れているのだ。そんな表情になるのも致し方ないことだと思った。

「あ」

 へいちょう。
 走ってきてくれたのだろう、肩で息をして、目を見開いた兵長なんて、初めて見た。信じられないものを見るかのような目をしている。ああ、よかった。最後に会えて。
 立ち上がって、手を伸ばそうとしたのに、体は何一つ言うことをきかなかった。兵長がわたしの手を強く掴んだ。兵長に優しく抱き抱えられて、涙が出るほどに嬉しかった。

 でも、どうしてだろう。もうなにも聞こえなかった。兵長が何かを言っている。唇が動いているのは見えるのに、何も聞こえなかった。いやだ。なまえを。名前を呼んでほしい。よくやったって、褒めてほしい。どうして何も聞こえないの?
 そのうちに、視界の端に黒い靄がかかり始めた。じわりじわり、と、視界が狭まってゆく。わたしの片方だけの視界が、だんだんと光を捕らえそこなっていく。兵長が必死に何かを叫んでいた。ぎゅう、と強く握りしめられた手から、兵長の体温を感じ取ることはできなかった。
 ああ、死んでいくって、こういうことなんだね。

「へいちょう、」

 わたしの声は、あなたに届いているでしょうか。わたしが、どれだけあなたに救われたか、あなたのためだけに生きていていたのか、あなただけに心臓を捧げたのか、へいちょう、知っていますか?

「へいちょう、さむい、…」

 こんなにも、悲しい気持ちになったことはなかった。もう、兵長の声も聞こえない。きっとすぐに、何も見えなくなる。わたしの体は、静かに、体温を失っていく。
 声も出ているのか分からなかった。けれど伝えたかった。わたしがどれだけあなたを想っていたか。言葉では伝えきれないほど、感謝しているということを。あなたに会えて、どれだけ幸せだったかということを。もう直に止まってしまうであろうこの心臓は、あなただけに捧げたのだとういうことを。
 視界が狭まっていく。水面の奥に、兵長が見える。ああ、わたし、泣いているのか。

「へい、ちょう…どこ…どこですか、どこにいるの?」

 何も見えないよ。寒い。兵長、どこ?どこにいるの?悲しいよ。もう、二度と会えないんですね。わたしの神様。世界のすべてだった人。わたしが生きたあかしを、ほんの少しでも、あなたが覚えていてくれさえいれば、わたしは、生きた意味がありました。

へいちょう、さむいよ。なにも、みえない。どこにいるの?

 雪の積もる光景は、どうしたってそれだけで耳が痛くなるほどの沈黙を与えてくるのだろう。わたしの視界は雪の白、それだけだった。きっともう少し遠いところでは、人もいて、車も走っていて、誰かが話す声だって聞こえるだろうに、わたしのまわりだけは、世界から切り離された白い世界だった。永遠と、目の前に続く白い道がどこまでも続いているようだった。ざく。わたしが雪を踏みしめる音、足を持ち上げて、衣服がこすれる音。それ以外は何も聞こえなかった。見覚えのない住宅街は、本当に静かだった。
 親戚が死んだという報せで、わたしは見たこともない遠い地に連れられて、見知らぬ死人の顔を拝み、手を合せ、大人たちと一緒になってお経を聞いていた。両親が親戚と何かを話しているようだったから、わたしはひとり広い親戚の屋敷を抜け出し、見慣れぬこの地を歩いていた。コンビニの一つでもあれば立ち寄っただろうに、そこは本当に閑静な住宅街で、いつまでもいつまでも家々の塀に囲まれた白い雪道が続いているだけだった。静かに、静かに、わたしは幾度も白い息を吐き出しながらそこを歩いた。先を見ようにも、どんよりと灰色の曇天と白い雪道が続いているだけだったので、わたしは自分の足が雪を踏みしめる光景を見下ろしながら歩いていた。ざくざく。靴が濡れて、足先がじんわりと冷えていくのがわかる。そろそろ戻ろうか、と、わたしが足を止めたのは本当に気まぐれだった。落としていた視線を持ち上げる。白い雪、わたしの赤い傘。ゆるりゆるりと上昇する視界に少しずつ白以外の風景が映りこんだ。誰かの、靴。ピカピカに磨かれた革靴だ。黒いスラックス。同じ色の背広。茶色のカバン。傘を持つ、指先。雪のように、白い肌。

 わたしが視線を上げきったその先で、見知らぬ男性がこちらを呆然と見つめていた。こんな雪の住宅街に似つかわない、スーツを着たサラリーマン風の男性だ。あんまり背が高くなくって、その人は顔色が悪いように思えた。何より、彼はまるで信じられないものを見るかのような目でわたしを見ていた。
「…っ、」

 ぱく、とその人の唇が動いた。声にはできなかったような、押し殺した吐息が白い靄になって吐き出される。そこにはわたしとその人しかいなかった。雪がしんしんと降り注ぐ中、世界が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。

「…あの、」

 あまりにもその人がわたしを凝視するものだから、気味が悪くなって思わず声を発していた。その人は、はっとしたように視線を一度わたしから外して、それでも何かに混乱したようにぐるぐると目を白黒させていた。わたしが怪訝そうにそれを眺めて、数秒たったころ。その人は何か意を決したように、固まった息を吐きだした。

「寒かっただろう」
「え?」

 その人は、泣きそうになってそう言った。
 雪の降る日だ、寒くないはずがないだろうに。その人は、懐かしむように、何かを噛みしめるように、へたくそに笑って、肩をすくめた。

「変なことを言っていることは重々承知している。初対面の人間にこんなことを言われて、気持ち悪いとは思う、先に謝る。だが、言わせてほしい」

 伝えさせてくれ。その人は懇願した。初めて訪れた地で、初めて出会った人に、それも出会って数秒で、それでもわたしはその人の言葉の続きを聞かなければならない気がした。左目が、つき、と痛んだ。

「最後まで、俺を信じてくれてありがとう。俺を信じてついてきてくれて、本当にありがとう、俺のためだけに生きてくれて、ほんとうに、ありがとう」

 その人はそう言って、頭を下げた。そうしてこちらに近づいて、自分の巻いていたマフラーをわたしの首にかけて、また、「寒かっただろう、ごめんな」と言った。わたしはただそれを、ぼんやりと眺め、聞いていた。
 わたしから一歩、また一歩を後ずさるように距離をとり、やがて、その人は踵を返した。自分の歩いてきた道を戻っていくように、その足跡をなぞるように、その人は遠ざかっていく。途中、さらに奥から走ってきた背の高い男性が、その人の顔を覗き込んで驚いたように目を見開いて、今度はわたしを見て、もっと驚いた顔をしていた。茶色い髪の毛に、不思議な金色の瞳をしたその人は、わたしにマフラーをかけてくれた人よりもずっと若いように見えた。会社の上司と部下のように思える。金色の瞳をした若い男性が、わたしを見て、持っていた傘をその場に落とし、深く頭を下げた。彼はすぐに傘を拾ってふらふらと歩くその人を支えるように再び歩き出す。
 わたしは、もう二度と彼らに会うことはないだろうと、どうしてか、そのとき直感していた。分からないけど、彼ら二人を追いかけるべきだと思った。追いかけたところで何をすべきかもわからなかったけれど、そう思った。でも、足は前へは動かなかった。ただただ、その二人の背中が小さくなっていくのを見つめていた。白い雪の風景に、二人は消えていった。
 帰ろう、と思った。わたしはくるりと踵を返して、来た道を戻るように歩き始めた。マフラーはあの人の体温を吸って、温かった。突然現れた見知らぬ男性のマフラーを巻いているだなんてすごく気味が悪いことなのに、不思議と嫌悪感はなかった。わたしは、ずっとこれを待ち望んでいたようにも思えた。わたしは最期、とっても寒かったんだ。

 夢を見ていたような気分だ。わたしは傘を閉じて、雪の粒が舞う曇天を仰いだ。雪が、目尻に触れる。わたしは泣いていた。