あなたの涙はわたしが食べてあげる

 常々資金が足りないと嘆いているこの調査兵団で、酒はそう易々手に入る品物ではない。特にエレン・イェーガーの監視を兼ねてこの古城に居を構えている我々の元にある酒の数なんて、憲兵団が常日頃に消費しているそれの半分にも満たないだろう。だが景気付けや、たまの宴会用に少ない量ではあるが酒は常備されている。常備されているといっても、誰彼構わず手の付けていいものではない。とくに、こんな人の少ない夜には。
 わたしは洋灯(ランプ)で倉庫の中を照らしながら、中身の少ない瓶をひとつ手に取った。これでいいかな。それと一緒にグラスもふたつ手にして古城の階段を上った。静かだった。静寂は心地よいけれど、風の音も聞こえない夜の静けさというのはどこか心もとない。自分の足音以外は何も聞こえなかった。鼓膜が圧迫されているようだ。それを振り払うように、わざと音を漏らして息を吐いた。古い木造の扉を二回ノックする。何も聞こえない。けれどこの木の扉の向こう、生きている人間の気配は紛れもなく存在した。わたしは扉を開けた。

「…明るいね」

 蝋燭ひとつつけていない部屋なのに、ベッドの横の大きな窓からは真っ白な月明かりがこれでもかというほど差し込んでいるため、室内の様子は容易に肉眼で確認できた。石造りの城であるため、それぞれの部屋も勿論同じ石造りである。どこか冷たくて、さほどの面積があるわけでもないのにそこはひどく広い空間に感じられた。壁に向かって設置されたテーブルと椅子。テーブルには書類が散乱していた。それを確認できるほど、月明かりは眩しかったのである。そして大きな窓の横、清潔感の漂う真っ白なシーツが敷かれたベッドの上に、彼はいた。こじんまりと座っているだけの彼は、わたしの訪問に一瞥もくれず、まるでそう命令されたかのようにじっと窓の奥の月を見つめていた。地下街出身である彼の、その白くて陶器みたいな頬は月明かりに照らされていっそ青白いとさえ感じた。テーブルの上に持っていた酒瓶とグラスを置く。女性のわたしとそう目線の変わらないこの男は、座るともっと小さくなって、あわや子供と見紛うほどだった。ベッドのそばまで歩み寄って旋毛を見下ろす。黒くてつやつやな髪の毛は、潔癖症の彼を象徴しているみたいだった。

「リヴァイ」

 人形のように。リヴァイは指先ひとつ動かさなかった。ただひたすらに月を見つめ。ただひたすらにその瞳から雨のように涙を降らせている。音のない涙は、それがもう芸術品のようにも思えた。

 夕食のときにもう気づいていた。ああ、今日なのだな、と。食堂を離れ、誰とも言葉を交わさずさっさと湯浴みを終えたリヴァイの背中を見てそれを確信した。酒を持ってきてはみたが、無駄骨に終わりそうだ。
 リヴァイは本当の本当の偶に、一人で泣く夜を作っている。1年に一度か、半年に一度か。正確な頻度は分からないけれど、わたしがそれを知ったのはここ3年くらいである。しくしくと泣くのではない。わんわんと泣くのではない。ただ息をするように、リヴァイは涙を零す。その瞳にたくさんの悲しみと苦しみを湛えて、もうその身に背負いきれないほどの悲壮を抱え込んだら、こうしてそれらを体外に排出しているのである。ぽろぽろと零れる涙はきっと、口数少ないリヴァイの心なのだと思う。リヴァイの心は、いつだって悲しくなるほど美しかった。

「リヴァイ」

 その場に膝をついて、座っているリヴァイを下から覗き込んだ。床に座り込むだなんて、普段の彼になら汚いだのなんだの暴言を投げつけられるだろう。それでもリヴァイはやっぱり窓の奥を見つめていた。くっついている膝を割って、その間に体を滑り込ませる。手を伸ばしてリヴァイの頬を両手で掴んだ。こちらを向かせる。たくさんたくさん溜められていた涙は、わたしが無理やり下を向かせる所為で本当に雨みたいにわたしの顔に降り注いだ。黒い髪の毛がぱさぱさと米神を滑って、リヴァイの顔に影を作った。リヴァイはようやくわたしを見た。わたしがここにいることに、いま初めて気付いた、というような目をする。

「リヴァイ、泣かないで」

 そう言うと、リヴァイはさらに涙を零した。ぱたぱた。表情はないのに、瞳は確かに悲しいと言っていた。苦しいと言っていた。この瞳は、一体何人の仲間の死を見てきたのだろう。リヴァイの三白眼には、いま、わたしが映っていた。
 わたしたちには、この男の力が必要不可欠だ。巨人どもから人類の領地を奪い返し、本物の自由を手に入れるには、この男に幾度も幾度も戦ってもらわねばならない。人類には、人類最強のこの男がいなければならない。だからこの男は、何度も戦地へ向かい、何度も仲間の死を目の当たりにして、そして何度も何度もそれを繰り返さなければならないのである。彼は人間だ。だからこうやって、綺麗な涙を流すのだ。分かっている、リヴァイにはもう戦うという選択肢しか残されていない。そしてその選択肢を選ばせるのは、わたしたちである。仲間が死んだとき、部下が死んだとき、リヴァイがどれほど悲しんでいるのかも知っている。けれどわたしたちはこれまでも、そしてこれからも彼を戦地へ送り出さなければならないのだ。その太陽を知らない白い背中に、真っ赤に焼けた自由の翼の刻印を押し付け、戦地へ放り出す。彼の背中はいま、自由の翼の刻印で焼け爛れていることだろう。でもこうして涙を零すことによって、彼が少しでも前へ進む力を諦めないでいてくれるのならば。否、この男にはもう諦めるという選択肢すら残されていないのだろうけれど。

「おい」

 リヴァイが口を開いた。相変わらず、その顔はわたしが掴んでこちらを向かせている。リヴァイは抵抗ひとつしなかった。

「泣くんじゃねぇよ」

 言葉を話すたびに振動が伝わって、リヴァイの瞳からはぽろぽろと涙が零れていった。そしてその零れた涙はわたしの目じりに降り注ぎ、頬のラインをなぞって顎に伝い、まるでわたしこそが泣いているようにも見えただろう。この馬鹿男め。いつもずんと重みがあってどこにいたって聞き取れるリヴァイのテノールは、そのときばかりは蚊の鳴くような声だった。リヴァイは相変わらず涙を零す。わたしにそれを止める術を導きだす能力はなかった。止まってくれないかな、という意思を込めて、さらにリヴァイの顔を自分のほうへ引き寄せてキスをした。ベッドに座りながら足の間から生えたわたしに顔を掴まれキスを施されるリヴァイの体勢はきっとかなり辛いだろうに、背骨をまあるいカーブにして、彼はおとなしくそれを受けた。顔をくっつけたせいで、よりわたしの顔にリヴァイの涙が降ってくる。雨のようだと思ったけれど、これはこの間みた流星群を思い出させる。雨よりももっともっと綺麗で、儚くて、一瞬の奇跡。わたしは生きているんだよ、とこの体温を送るように唇を深く重ねた。舌を差し込んで、歯列を舐めて、唇を食む。溢れる唾液は上を向いているわたしの口にすべて流れ込んできた。所在なさそうにシーツの上に放り出されているリヴァイの手が、おそるおそるわたしに伸びてきた。けれど触れる直前、それを躊躇する。怖いのだ。この男は、いま触れるこの体温がいつか失われて、もう二度と触れられなくなることを恐れている。だから、触れることすらできない。ああ、なんて愚かな人なんだろう。わたしに触れて。わたしは生きているんだよって、伝わるように下から噛み付くようなキスを更に深いものにする。リヴァイの指が、そっとわたしの髪の毛の間に差し込まれた。わたしの頬を伝ったこの涙は、誰の涙だっただろう。

「ふ、」

 どちらの口から漏れた声か分からない。いつも悠然と主導権を握るリヴァイも、涙をぼろぼろと零すこんな夜には、テクニックも何もないただ貪るだけのようなわたしのキスにさえ翻弄されていた。薄く瞳を開くと、リヴァイの表情はどこか困惑しているように見えた。覚えたくないのだ、わたしの体温を。忘れてしまわなければならない日がくると思っている。まったく。こいつはそんなにわたしが簡単に死ぬような女だと思っているのか。心外である。
 唇を離す。リヴァイの真っ白いだけの頬は、ほんのりと赤みを取り戻していた。ただならぬ色気を纏う子供みたいなサイズの男に、わたしは思わず笑みを零してしまった。「泣かないで。明日の朝、目、腫れちゃうよ」
「…」

 存外素直に頷いたリヴァイが可愛かった。
 誰にも知られぬよう、誰にも悟られぬよう、息を潜め、たった一人で涙を零すこの男がいとしかった、可愛かった、愛らしかった。そして、悲しかった。可哀想なリヴァイ。もう彼は死ぬことすら許されはしない。もう寝よう、と言うと、リヴァイはまたこくりと頷いてもぞもぞとシーツを被った。そしてシーツを少し捲くり、人一人が入れるくらいのスペースを空けてわたしを見つめた。

「寝ないよ?お酒片付けないと」
「…んなモン明日でいい」
「…まったく」
 
 「明日の朝誰かが起こしに来たら気まずいじゃん」と言うと、「知るか」とそっけない返事が返ってきた。ブーツを脱いでベッドに潜り込む。シーツごとわたしをぎゅうと抱きしめるリヴァイは、たくさんたくさんわたしの首元で息を吸ってから、長くそれを吐き出した。今日零れたリヴァイの涙が、また明日を生きる糧になればいい。
 わたしはわたしだけしかこんな夜のことを知らないということに、どこかで優越感を覚えていた。誰も知らない、わたしだけのリヴァイ。わたしも同じようにリヴァイの背中に腕を回して、すがるように抱きついた。それほど身長差がないために、どちらかが一方的に抱きしめる抱きつくというよりかは、お互いがお互いを抱き枕みたいに抱き込んだ。

 みんなが死んでいってしまって、リヴァイがもうどうしようもなく挫けてしまったときは、わたしが彼を殺してあげようと思った。その自由の翼を、わたしがもいであげる。だからどうか、今は前を向いて。今日までに死んでいった兵士たちを思って泣いてもいいよ。
 あなたの涙はわたしが食べてあげるから。

女型の巨人との戦闘のあと、リヴァイ班が全滅した夜くらい