水面の月は沈まない

アニメ15話のあとくらい
スレインが擦れ擦れ

「なにそれ。似合わない」

 伯爵地位の者のみが着用することを許された、燃えさかる炎の色をした軍服。揚陸城の一室に幽閉されているわたしのもとに、そんな制服を身にまとったスレインが訪れた。ザーツバルム伯爵が殉職したことは聞いていた。彼がスレインを養子に迎えると宣言したことも、そのすこし前に耳にしていた。スレイン・トロイヤード・ザーツバルム、だって。その名を聞くたびに、わたしは漏れ出る嘲笑の笑いを抑えることができなかった。

「ついに伯爵だって?おめでとう。出世コースまっしぐらだね」
「結論は出ましたか」

 わたしの軽口などには耳も貸さず、スレインは冷たく言い放った。足枷から伸びる鎖はこの部屋の奥に繋がれていて、ちょうど扉の一歩手前までの長さしかない。ソファの上でそんな憎たらしく冷たい鎖を指先で弄ぶわたしに、スレインは眼光を鋭くするばかりだった。すぐ隣に腰を下ろし、鎖を絡めていたわたしの手を強く掴むと、スレインは一度固まったため息を吐き出してから口を開いた。

「もう時間もないんです」
「時間?時間なんていくらでもあるでしょう。姫さまは目覚めない。何かを議論するのも、思案を巡らせるのも、もうなんの意味もないの」
「あなたはいつまで自暴自棄になっているんですか」

 アセイラム姫が銃撃され、治療液漬けにされてからもうどれくらい経ったのだろうか。スレインがザーツバルム伯爵のもとに下り、地球と長らく戦争を続けたまま、クルーテオさまの家臣だったわたしはこの揚陸城に幽閉された。アセイラム姫が地球で銃撃され、生死を彷徨っていると知ったあの日、わたしの世界はときを止めた。身柄を拘束されたわたしは、それから一度だけ姫さまに会うことを許された。治療液のなかで、姫さまが固く瞼を閉じていた光景が目に焼き付いて離れない。わたしにはもう生きる目的も意味もなにもない。生かされる理由すらないのだ。だというのに、わたしはスレインの取り計らいで今もこうして醜く生きながらえている。
 スレインはわたしに忠誠を誓わせ、大いなる目的のために尽力させようと目論んでいるように思えた。
 レムリナ姫が健在の今、わたしは再びアルノドアの起動因子を貸し与えてもらうことができる。戦場に降り立つことは可能だ。けれど、こんな世界で誰のために、なんのために戦うのか。わたしにはそれをするだけの理由がなかった。けれどスレインは何度も何度もわたしに忠誠を求めた。わたしを殺すこともできないくせに、まだあのときみたいに、彼は馬鹿みたいに律儀だった。

「やりたいのなら、勝手にやればいい。わたしにはなにもできない。それが不服なら早くわたしを処刑してよ」
「あなたはアセイラム姫の回復を信じていないんですか?」
「はあ?それは…それはあんたのほうでしょ」

 わたしの反論に、スレインは表情を険しく歪めた。

「信じているのなら、本当の姫さまの願いを引き継ぐべきだったんじゃないの?わたしにはあんたがもうなにをしたいかがわからない」
「姫がお目覚めになったとき、そこには争いのない、新しい世界が必要なんです。そのために自分はいま戦っている」
「妄言ね」

 ぐっ、と掴まれた手に力を加えられて、思わず痛みに眉を寄せた。スレインを見ると、怒りとも不安とも取れぬ形容しがたい顔をしていた。

「なぜ!なぜ理解してくれないんですか?あなたはただ一人、唯一の理解者であってくれたはずだ!」
「わたしとあんたが同じだったのはかつての姫さまへの忠誠と、卑しい身分だということだけ。わたしには姫さましかいなかった。スレインもそうだったでしょう?あの人の幸せだけを考えてた。けど、もういまは違う。違うよ、スレイン。スレインのこの手から、姫さまは零れ落ちてる」

 切れ長の瞳が大きく見開かれた。ほらね、わかってるんでしょう。図星を突かれたと思うから、そんな顔をするんでしょう。
 スレインに強く胸元を掴まれたかと思うと、そのままソファに勢いよく押し倒された。その上に馬乗りになったスレインをわたしは黙って見上げた。

「最後です…従ってください」
「…わたしの忠義は、アセイラム姫さましかあり得ない」
「いいや、従うんだ」

 低くなった声音に、意思とは無関係にわたしの体は揺れた。聞き覚えがあるからだ、こういう状況下の、男の低い声音に。それはゆっくりと、確実にわたしの悪夢の断片を蘇らせた。
 直後、ブチっと鈍い音がして何かが飛んだ。小さなそれは白い床に落下し、コロコロと音を立てて目視できない部屋の暗闇に転がっていった。それが自分の身につけているシャツのボタンだということに気付くまで、ややタイムラグがあった。胸元に冷たい外気が触れる。スレインを見る。その瞳はもうわたしの知っているその人ではなかったように思う。

「や、めてスレイン」

 あれだけ細く華奢だと思っていたのに、男女の腕力の差なのだろうか、そのとき、スレインの腕を振りほどくことは叶わなかった。

「自分がなにをしているかわかっているの?」
「何もかも理解している。自分の置かれた状況をいつまでも理解できないのはあなたの方だ」

 腕を拘束される。スレインはわたしの足枷から伸びる鎖を器用に絡めとり、両足の自由も奪った。鼓動が早まる。息が詰まった。背中には嫌な汗が噴き出した。

「やだ、やめて!スレイン!」
「何故?クルーテオ伯爵には許していたでしょう。僕が知らないとでも思っていたのか?」
「ちが、そうじゃない!スレイン!離して!」

 狼狽するわたしに、スレインはまるで鬼の首を取ったように急に得意げになって破れたシャツをむしり取ろうと躍起になった。吐きそう。脳裏によみがえる地獄みたいな悪夢を振り払おうとしても、目の前の理解しがたい状況に思考がついてこなかった。
 怖い。目眩がした。

「さぞ可愛がられたんだろうな、あなたはやたらに口が達者だから」
「スレイン!スレイン…!お願いだからやめて!」
「自分の要求は通そうとするのか?こちらの言葉にはまともに返答すらしなかったくせに」
「ちがう…こんな、こんなこと…!」

 頭がパンクしそうだ。気持ち悪い。体がエラーを起こしたみたいに何も言うことを聞かなかった。涙が勝手にあふれ、嘔吐感にえずいた。
 姫さまがいなくなって、スレインがどんどんと遠くなって、わたしには何もなくて、ただみっともなく生きながらえたこの2年という月日はわたしを出来損ないの人形のように弱くした。スレインが怖くて、悲しくて、涙が止まらなかった。

「やめて」

 スレインの動きが止まった。

 彼に、わたしの悪夢の人になって欲しくない。壊れたらもう二度と元に戻らない。優しい優しいスレインを、殺したくない。

「やめてよ…返して…」
「…え?」

 感情が溢れ出して止まらない。目を覚まさない姫さまへの不安、恐怖。変わってしまうスレインへの畏怖、悲しみ。
そしてあまりにみっともなく生きながらえる自分への哀れみ。
 力が弱まったスレインの手から解放されて、両手で顔を覆った。涙が止まらなかった。

「返してよ…クルーテオさまも、姫さまも…みんなみんないなくなってしまった…」

気付いたら、もう誰もいなかった。この狭い部屋で、わたしはなぜ生きているの?

「スレインを…返して…」

 どこに行ってしまったんだろう、あの心優しく不器用な少年は。わたしに跨ってるこの人は、一体誰なのだろう。
みんなわたしの前からいなくなってしまった。わたしにはもう、何もないのに。

 スレインの指がわたしの目尻に触れた。

「もう、後戻りはできないんです。」

 そう言ってスレインは静かにわたしの上から退いた。わたしは涙でぼやける視界で、乱れた衣服を直しながら扉まで歩くその後ろ姿を呆然と見つめた。

「もし」

 部屋を出る瞬間、スレインは言った。

「もし、姫さまが目覚めたら、あなたはどうしますか?」

 スレインはわたしの返答を待つことなく部屋を後にした。静寂を取り戻した室内で、わたしは暫く馬鹿みたいにうるさい自分の鼓動の音を聞いていた。

 愚かなのはわたしだ。そしてスレイン、あなたも。わたしはそのときの彼の決意と、ただ一人の夢のために世界を変えようとする孤独な少年を理解すべきだった。何もかもを捨てて、諦めて、彼女のために覚悟を決めた彼を。
スレイン、教えて欲しかったよ。そのとき、姫さまが目覚めていたことを。知っていたら、あなたを一人にすることなど選ばなかったのに。
 けれどそのときのわたしは一人惨めに涙を流すことしかできなかった。