永久のなかで瞬きが眠る

アニメ前
アセイラムが地球に行く少し前くらい

ヨーロッパ、という土地の血が流れているのだろう。陽の光を浴びたことがないような青白い肌に、透けてしまいそうな薄い色素の髪の毛。落ち窪んだまぶたの奥では、碧眼の三白眼がきょろきょろとせわしなく視線を泳がせていた。

「痛い?」
「あっ、いえ」
「嘘、痛いに決まってるよ、こんな痣」

 細く頼りない肩に包帯を巻き終える。クルーテオさまの制裁(というには些か理由が些細なものすぎる折檻)で擦り傷とも打撲痕ともいえる傷を作ったスレインを介抱すること数分、終わったよ、と告げると彼はいそいそとシャツを羽織ってから、ベッドに腰掛けたまま仰々しいほど深く頭を下げた。

「ありがとうございました、こんなことにお手を煩わせてしまい、申し訳ありません…」
「いいよ、大丈夫、わたしが好きでやってるんだし。後でもう少し冷やしたほうがいいよ」
「お気遣い、感謝いたします」

 まるでロボットのようだ。その口から出てくる言葉はそう思わざるをえないほど仰々しく、畏まりすぎているせいで、まるで発言者の意図を汲み取れないと思った。
 スレインがわたしに謝罪すべきことなどない。むしろ謝るべきはきっとこのわたしのほうであろう。わたしが姫さまという奇跡みたいな存在に生かされた身であることこそ、いまのわたしの身の上が保証されていることにほかならない。遠い昔の悪魔のような記憶がわずかに脳裏にちらついた。わたしが押し黙ったことに、スレインはすこし不安げな表情を覗かせる。可哀想なスレイン、せめてあなたのことはわたしが守ってあげたいと、そう思わざるを得ない。シーツに放り投げられたスレインの手を握った。温かくて、まだ頼りない手だ。

「もう、あっという間だね」
「え…?」
「姫さまが、地球に行くの」
「…ええ」

 来週にはもうアセイラム姫はあの青い星へ、友好の証として降り立つことが決まっている。なんとか条約だとか、なんとかの記念だとか、そんなの何もわからない。ただ、わたしたちの何よりも大切で尊いあの少女が青い星へ、念願の地球に降り立つことだけは理解していた。何度危険だと言っても、彼女は聞かなかった。自分が平和のシンボルになるのだと、それが務めなのだと。あまりにも美しく、まっすぐな瞳で見つめられたとき、わたしは何も言えなかった。ほんとうに、彼女が地球に赴くことで、果たしてこの冷戦に終止符は打たれるのだろうか。火星騎士がなによりも戦いを、武勲を欲しているのを知っている。停戦条約など、名ばかりの形骸化した旗印でしかない。地球の人間だって、きっとアセイラム姫を快く迎える人ばかりとは言えないだろう。

「アセイラム姫は立派に務めを果たそうとなさっておられます」
「わかってる、姫さまにも、何度も何度も…何度もそう言われた。でも、怖いよ」
「…そう、ですね、自分もです」
「彼女になにかあったら…彼女に対する不穏分子はみんなわたしが殺してやる」

 わたしが生かされているのは全ては姫さまのご加護によるもの。アルドノアの起動因子を貸し与えていただいて(搭乗の機会はいまのところ定かではないものの、)アルドノアドライブを搭載したカタフラクトでヴァースのために戦うことを許されている。もし姫さまに何かあったとき、わたしは二度とカタフラクトには搭乗できない。そしてそれは死を意味している。けれどそれは本望でもある。姫さまのいない世界など、まるで生きるに値しないのだ。
 スレインが少し驚いたように目を丸くしたのを横目で見たあと、わたしはその膝に倒れこんだ。急激な体重の移動に、ベッドのスプリングは驚いたように音を上げた。スレインの太ももに後頭部を預け、わたしはその顔を見上げた。彼はあいも変わらず、いつものように困った顔をしていた。

「スレイン、」

 名前を呼んで、彼のうなじに手を伸ばした。そしてそれをそのままこちらに引き寄せるように力を加えると、わたしの意図を悟ったのか、スレインは形の良い柳眉をきゅっ、と寄せて頬を赤らめた。そんな愛らしい表情の機微は見えなかったふりをして、わたしはさらにスレインの顔を引き寄せる。無理に上体を屈むことを強要されたスレインの顔がゆっくりとわたしの眼前に降りてくる。瞼を引きおろす。スレインの唇が触れたのはそのあとすぐだった。彼の首にかけていた手を退かした。それでもスレインは上体を起こすことなく、拙く可愛らしいキスを続けるばかりだった。しばらくしてようやっとスレインは顔を上げた。わたしも一緒になって身体を起こした。スレインに向き直る。なんて都合の良いことか、ここはベッドの上だ。わたしがスレインの白い頬に手をかけると、今度は彼の方から唇を寄せてきた。舌を差し込んでみる。わかりやすいほど肩が揺れたのがわかった。スレインの後頭部に手をかけ、そのふわふわの髪の毛の間に指を差し入れる。そうすると、スレインの手はわたしの背中と腰に回った。ぎゅう、としがみ付くようにスレインはわたしを抱き込んだ。それはまるでなにかに必死にすがる子供のように思えた。

 わたしたちは二人、卑しい身の上だ。けれどわたしだけは、姫さまからアルノドアの起動因子を授かることで騎士という身分を得た。いま、表立ってわたしを迫害する輩はなりを潜めているが、スレインは違う。クルーテオさまの折檻だけではない傷をつくることも珍しくない。可哀想で、だれも彼を助けてあげられない。美しい姫君は手を伸ばして届くところにはいないのだ。

 スレイン、ごめんね。本当に堕ちるべきはわたしのほうだった。わたしあなたより地球を知っている。美しいものも、穢れた部分も。わたしの存在こそ、その穢れた部分であるというのに。

 顔を離すとスレインはその大きな瞳に水の膜を作っていた。頬が紅潮している。昨晩クルーテオさまに酷く扱われたこの穢れた体は、目の前の優しく可哀想な少年を求めていた。卑しく、穢い。それを自覚しながらも、わたしはおそるおそるこちらに体を寄せる少年に手を伸ばし、その身を委ねた。