白は黒、あいはくれない、夜と昼

アニメ前の話

 わたしは知っている。地球の美しいもの、美しい場所、美しい景色、美しいことば。それは有限で、その地に生きるものしか得ることのできない悲しくなるほど尊くて美しいものたち。それらを集めてぎゅっと凝縮して人の形を成したとき、それはきっとこの人のかたちをしていることだろう。

「姫さま」

 こちらに向けられた宝石みたいに美しい瞳。その中に自分を見つけた瞬間の、えも言われぬ高揚感は、言葉に表すことなどできなかった。

「髪が、」
「あら。本当?どこかに引っ掛けてしまったのかしら」

 アセイラム姫のきらきらと輝く黄金の髪の毛が、丁寧に編み込まれた端から一房溢れていた。

「わたしに直させていただけますか?」
「ええ、もちろん。お願いできますか?」

 アセイラム姫は開いていた分厚い書籍を一度ぱたんと閉じてから、わたしのことを見て微笑んだ。そしてこちらに乱れた箇所を向けるようにして座り直り、瞼を閉じた。
 失礼します、と言って姫さまの背後に立った。なんて美しい髪の毛だろう。いいや、髪の毛だけではない。この頸も、肩も、線の細い体全部、ここに存在する彼女そのものが美しかった。

「姫さま」
「なあに?」
「月の色をご存知ですか?」
「いろ…?」

 溢れた一房の黄金に輝く髪の毛を手に取った。

「はい、夜の、月。地球では夜の空は紺色をしています。陽の光のない、どこまでも深い紺色の絨毯のような空。そこに、ちらちらと小さな星たちが瞬いているんです。そうですね、熱い紅茶に粉砂糖をいれたとき、キラキラと反射しているような…」
「まあ…」
「その瞬く星たちの中で、静かに月は光っているんです。もちろん月そのものに光原体はありません、太陽の光を反射して光っているに過ぎませんが…そのときの月の色。ちょうど、アセイラム姫の髪の色のようなんです」

 乱れた一房の髪を編み込み直す。そう、きっとこんな色をしていた。割れてしまう前の、美しくまあるい月。いま、地球から見た月はどんな色をしているだろうか。まだ、こんな風に尊い色をしているだろうか。

「素敵です…月が光り輝いて見えるなんて…」
「割れた今となっては同じ色をして見えるのかは定かではありませんけどね」
「ええ、でもまたひとつ素敵な話を聞かせていただきました」
「ふふ、光栄です」

 髪のセットをし直して、わたしは今度姫さまの正面に跪いた。きょとんと丸められるエメラルドの瞳。エメラルドとは一体なんのことですか?と姫さまはきっとまた目を瞬かせてお聞きになることだろう。

「わたしはいつも思い出します。姫さまを見るたび、地球の美しいものたちを。」
「…ありがとう。いつか、この目で見てみたいものです」

 柔和に微笑んだアセイラム姫。わたしは泣きたくなるほどの幸せを噛みしめた。
部屋の扉が開く音がする。見れば敬礼の姿勢をとったクルーテオさまとスレインがそこにいた。時間が来てしまったと、わたしは腰を上げた。不思議。姫さまといる時間は、どうしてこんなにも早く過ぎてしまうんだろう。永遠にも思えるときの流れを感じる時もある。けれど姫さまといるこの空間だけは、どうしてかときの流れがとてつもなく早い。理不尽だと思った。

「スレインに交代です。姫さま、失礼します」
「ええ。髪の毛、ありがとうございました」
「いいえ、では」

 敬礼をしてから、こちらを見上げるアセイラム姫の唇に触れるだけのキスをした。姫さまはいつものように少し照れたふうに微笑んだ。
 踵を返せば険しい表情のクルーテオさまがこちらを睨んでいた。何も怖くない、いつものことだ。その後ろでスレインが迷子の子犬のようにせわしなく視線を泳がせていた。

「スレインせんせ、またあとでね」

 クルーテオさまと部屋を後にする際、スレインの肩をポンと叩いた。スレインはまた大袈裟なほど驚いたように目を丸くしてこちらを一瞥した。これからの時間、彼は姫さまの教師だ。今日はどんなことを話すのだろう。姫さまはどんな表情でそれを聞いて、何を思うのだろうか。それを思案するだけで頬が緩んでしまう。廊下に出て少し歩いたところで、前を行くクルーテオさまがぴたりと足を止めた。

「貴様、あのような愚行、まだ止めぬのか」
「愚行って…。あれは立派な儀式ですよ。わたしだっていつ戦地に赴くかわからないもの」
「身の程を弁えろ」
「…クルーテオさま、嫉妬してるの?」

 振り向きざま、彼に頬を強く叩かれた。結構な衝撃だったものの、歯を食いしばっていたおかげで口の中を切ることはなかった。今の軽口でこうなることが予測できていたので、あらかじめ歯を食いしばっていたのだ。もちろん、引っ叩かれた頬はひりひりと痛むけれど。

「調子に乗るなよ」
「…ごめんなさい」

 ここは素直に謝罪するのが賢い。わたしは経験値に基づいた行動をとった。ぐっと胸元を掴まれ、そのまま持ち上げられる。気道が締め付けられて息が詰まった。鼻先がくっつくほど近づいたクルーテオさまの瞳には、静かな怒りの灯火が揺らめいていた。綺麗なかお。いかにも厳格で清廉なふうを装うこの男が、まさか夜にあのような素顔を見せるなど、だれも予想すらつかないことだろう。わたしはそのギャップに笑ってしまいしうになるのを堪え、再度謝罪の言葉を述べた。知っている、この人はわたしのごめんなさいに弱いことを。

「持ち場に戻れ。勝手に出歩くな」

 ほらね。クルーテオさまはわたしの胸元から手を離し、そのままブーツの小気味のいい音を響かせて廊下の奥に消えていってしまった。わたしは叩かれて熱を帯びる頬を撫でてから、乱れた制服を正し、やれやれと今夜の自分の身を案じた。