明日の朝には溶けちゃうからね

 軽いストレッチ、柔軟。アロマオイル入りのハンドクリームを塗りながら、以前部屋に忍び込んできたアマイモンに寝込みを襲われかけたことを思い出した。もちろんわたしの悲鳴に慌てて飛んできた燐と雪男に見つかるまいとすぐにアマイモンは姿をくらましたけれど、このハンドクリームはそれ以来ずっと使い続けている。悪魔が苦手な香りなんだそうな。わたしからしたら甘ったるくて、睡眠導入には持って来いの香りだと思うのだけれど、どうやら魔除けには効果覿面らしい。部屋の電気を落として、暗闇の中、慌ただしい今日を振り返った。学校の授業、体育の授業をサボって保健室に向かったこと、祓魔塾で居眠りをこいている燐の頭をべリアルでぶん殴ったこと。そんなことをもやもやと考えていると、とてもいい流れで睡魔に襲われた。今日の夕食、燐や雪男と交わした言葉。

「(…あれ)」

 ふと思い出される。唇を尖らせた燐が、ぷんすかと怒っていた。たしか原因は

「(雪男と喧嘩したって…言ってた、ような)」

 うとうとと気持ちの良いまどろみに片足を突っ込みながら、わたしは別のところで嫌な予感を覚えた。あと一歩のところまで来ている睡魔と、足首からまとわりつく妙な寒気に板挟みにされる。でも、ダメ。眠い。もう寝てしまおう、とその嫌な予感やら寒気やらを追い払おうとぐるんと寝返りを打った瞬間だった。
 きぃ、と扉の開く音。来た。来てしまった。睡魔にまだ片腕を引っ張られながらも、静かに意識が覚醒へと向かっていくのを感じた。扉には背中を向けるように寝ているせいで、ゆっくりとこちらに近づく何かを目視することはできない。ぎ、とベッドのスプリングが鳴る。きっと、その何かがベッドに手をついたのだ。そろりと薄目を開ける。わたしの体温で温まり始めていた毛布の間をぬって、それはベッドの中に侵入した。
 やっぱり来たな。雪男は燐と喧嘩すると、何故か夜更けになって人の部屋に不法侵入しては夜這いまがいな行為に走ろうとする。今日も例外ではないようで、わたしが背を向けて寝ているのをいいことに、雪男はその大きな体でぬるりとベッド中に侵入し、わたしを抱き枕のようにしてぎゅっと強く抱き締めた。

「ぅぐ、」

 それがあまりに強い力だったので、思わず潰れた声をあげてしまった。脇の間から器用に差し込んだ太い腕で、がっしりと自分の体に縫い付けるようにわたしを抱きしめるのだ。どちらかといえば締め上げる、という攻撃にも思えるほどだ。パジャマの薄い生地の上からでは簡単にお互いの体温を拾えてしまい、ただただ雪男が妙な気を起こさないようにと願うしかなかった。

「…ゆきお」
「あ、起しちゃいましたか」
「起こすためにやってるんじゃないのかよ」
「どちらもあります」
「抱きつくのはいいけどもうちょっと優しくして、さすがに苦しくて寝れない」

 雪男はきっとわざと耳の穴に熱い息を吹き入れるようにして喋っているのだろう。反応しては負けだ。わたしの胴体に蛇のように巻きついている逞しく成長した腕をぺしぺしと叩いた。直後に脇腹を指先でまさぐられて、思わずくねっと体を揺らしてしまった。

「ちょ、っと…!!」
 
 その反応に気を良くしたらしい雪男が、耳たぶを甘噛みしたり、長い脚でわたしの脚を絡め取ったりと急に調子に乗った行動に乗り出した。相変わらずぎっちりと締め上げられた腕からは抜け出すことは不可能で、いたずらに体を捩ったりしてそれらから逃げるしかない。「調子に乗るな」と少し怒った風に言ってみても、表情の伺えない雪男は、今度はあろうことか腰を人の臀部に擦りつけ始めた。完全に夜這いしにきているな、こいつ、と確信して、わたしはなんとかぎちぎちの腕の中で体を反転させ、暗闇の中で怪しく光るレンズの奥を睨んだ。

「ゆ、き、お!やめてよ!!」
「しー、声が大きいですよ、今何時だと思ってるんですか」
「お前が勝手に人の部屋に不法侵入して体べたべた触り始めるからでしょうか!」
「…可愛くてつい」
「どうせ燐と喧嘩したからなんでしょ、わたしを巻き込まないでよ」

 どうやら図星だったらしい。雪男は一瞬むっと眉間に皺を寄せてから、わたしの後頭部を掴み、キスをしてきた。先ほどから述べているとおり、ほとんど体を動かすことが叶わない状況だ。すぐに舌が割り込んでくるのがわかった。ずいぶん虫の居所が悪いと見える。キスをしながら雪男は膝でわたしの脚の付け根をぐいぐいと押し上げた。機嫌が悪いといってもさすがに性急すぎる。大体今は日付も変わった時間帯だ。明日だって学校がある。わたしが優先すべきなのは間違いなく睡眠だった。

「っ、雪男!まじ、で、っん、やめて!」

 繰り返されるキスの合間になんとか抗議の声を上げる。雪男の腕と膝からは逃れられない。まずいと思った。ていうかこれ、強姦じゃん。せっかくの睡眠を邪魔された揚句、理不尽に体を蹂躙されることに対してむくむくと湧きあがる怒り。人の咥内を好き放題に暴れる舌をぐっと噛んでやった。

「いっつ、…噛むなんてひどい…」
「ゴーカンしてくるやつに言われなくない!」
「強姦だなんて人聞きの悪い、合意の上じゃないですか」
「いつ?いつわたしが合意したと感じたの?」
「ベッドに引き込んでくれたじゃないですか」
「勝手に潜り込んでおいて…キモい…ほんとに放してほしいんだけど」

 どん引きだ。暗闇に慣れた瞳で雪男がにんまり笑うのを捉えた。

「とにかく、本当にいま無理やりしようとしないで。わたし寝るの。あんたいっつも燐と喧嘩だのなんだのしたときわたしの部屋に来るけどさ、いいよ、一緒に寝るのは。でも無理やりしようとするのは嫌だ。嫌いになるからね」

 嫌い、という言葉にはさすがの雪男もしょもしょもと縮こまっていくのがわかった。素直で大変よろしい。腕の力が少し弱まった。

「素直じゃないね、雪男ちゃん。よしよし」

 燐と喧嘩した後、雪男はきっと15歳の年相応に我儘になったり、ふくれっ面を晒したいのだろう。でも兄の前では見せなくない。だからわたしの部屋にやってくるのだ。よしよしって、わたしが頭を優しく撫でるといつも安堵した表情を浮かべるのがその証拠だ。撫でまわすついでに、わたしと同じシャンプーの香りがする雪男の頭をぎゅっと抱き込んで、旋毛に唇を押しあてた。いい匂い。

「今日はここで寝ていいよ、おやすみ。明日ちゃんと燐と仲直りしてね」
「…はぁ。ほんと、かなわないなぁ」
「当たり前でしょ」

 観念したように雪男はすっと腕の力を抜いて、今度はすがるようにわたしに抱きついてきた。眼鏡を外して枕のそばに置く。障害がなくなった雪男はさらにわたしに密着すると、ちいさく「おやすみなさい」と告げた。だんだんと気温が引くなってきた時期である。湯たんぽにはちょうどいいかもしれない、とわたしはようやく瞳を閉じて、先ほど泣く泣くお別れせざるを得なかった睡魔を再び迎え入れることに成功した。