絡まる吐息がほどけない

どこか疲れた表情のジャーファルさまがわたしのもとへやってきたのは、ちょうど太陽が頭の天辺に上り切った頃だった。管理している薬草の庭でその手入れに追われていたわたしは、にこり…とどう考えても訳あり顔の笑みを見せるジャーファルさまにすぐに駆け寄った。

「ジャーファルさま、どうされたんですか?」
「いえ…本当に突然で大変大変申し訳ないんだけれど…とりあえずついて来てくれますか?」

そう言ってジャーファルさまが向かおうとしている目的地がどこなのか、わたしはすぐに察することができた。この方角、この足取りの重さ。きっとそう。間違いなく我が国王の執務室である。
その道中、数日前から外交のために国を空けていたシンドバット王が先ほど戻られ、その機嫌がとてつもなくすぐれないのだということをジャーファルさまは重い口調で話してくれた。赴いた先で、何か我が王にとって大層気に食わない条件でも提示されたのだろうか。シンドバットがこうも腹を立てて戻ってくるのは珍しいことのようだった。そしてそのせいで業務が滞っていること、自分を含め、部下たちもそのピリピリとした重い空気に気を揉んでいることも告げられた。

「…いい年した大人が…なんて大人気ない」
「…まあ、それを言ったら元もこもないんだけれど。とにかくシンには早急に片付けてもらわなければならない仕事があるんです、この調子では非常に困る」
「それは…はあ、理解できますが、なぜわたしが呼ばれるんですか?」
「そりゃあ…シンの機嫌を手っ取り早く上げてやるには君以上の適任はいないでしょう」

ねっ、と肩を強く掴まれるが、何一つ理解が追いつかない。なぜわたしが、しかも何か非常に面倒くさそうなシンドバットの元に送られなければならないのだ。わたしが彼に喝のひとつやふたつ入れられるとでも思っているのだろうか。(で、あれば適任はジャーファルさまを置いて他にいないのでは…)わたしのそんな意図を感じ取ったのか、ジャーファルさまはやれやれと肩を竦めて見せた。

「これも仕事の一環だと思って。ね。」

面倒臭すぎる。けれどジャーファルさまには幾度となく助けていただいて、その恩義も感じている。彼の頼みならば断るわけにはいかない。断れない。それがわかってこの人もわたしを呼びに来たのだろう。相変わらず聡い人だと思った。

そうこうしている間にもシンドリア国王、シンドバット王の執務室の前に到着してしまった。行き交う彼の部下たちの表情は確かに固く、何か重い空気が漂っているのを肌で感じた。

「で、わたしは具体的に何をすればよいのでしょう」
「えっ」
「え?」
「あ、ああ、そうですね…何、と言われると…なんだろうな?」
「え?」
「まあ普通に他愛のない会話をしていただければ…それだけで十分だとは思いますけど」

随分アバウトな説明だな。どうやら丸投げする気満々らしい。

「あとくれぐれも私に呼び出されてここに来たということは伏せてくださいね。なにか適当な用事があったということにでもして…」
「業務時間中に陛下の部屋に来る用事など何もないのですが」
「私が君をわざわざ当てがったなんて最初からバレていては、どうも鼻につくじゃないですか」
「それも適当に合わせろということですね」
「…申し訳ない」

格段に足取りが重くなった。わずか数メートル先の扉をノックすることが非常に億劫でしかない。わたしは意を決して扉を叩いた。

「…入れ」

わたしは思わずジャーファルさまを見た。彼は困ったように苦笑するだけだった。
驚いた。部屋の中から聞こえたその声が、あまりにもドスの効いた、地を這うようなものだったからだ。これは聞いていた以上に厄介な状況なのかもしれない。ギィ、と恐る恐る扉を開ける。目の前で手を組みながら頭を下げ、その扉が開ききるのを待った。ちらりと視線だけを持ち上げ、部屋の奥にいる彼を見た。
長い足を持て余したように組み、肘掛に肘をついて書類を眺めるさまは、まるで職務中とは思えない。ともすればずるりと腰が滑り落ちてしまいそうなほど、寝そべるように椅子に座る姿は、もはや不貞腐れた巨大な子供だ。身に付けたギラギラと光を反射する眩い金属器のせいで、どことなくひどい悪さを企む悪代官のようにも見えた。

「陛下…シンドバット王よ」

口を開いてから、顔を上げた。シンドバットはこちらが驚く程目を丸くしてわたしを見ていた。

「あぁ?…え?」

最初のあぁ?までが先ほどの声色で、そのあとのえ?は笑ってしまうほど素っ頓狂なものだった。ずるりと肘掛から肘がずり落ち、体勢を崩したシンドバットは危うく手にしていた書類を床にばらまいてしまう寸前だった。分かりやすく、絵に描いたように彼は驚いているようだった。

「…あの、少々お時間よろしいでしょうか?」
「えっ?あ、ああ!珍しいな!勿論だ」

確かにこの時間帯、わたしが突然執務室に現れたことは過去に一度としてなかっただろう。シンドバットのほうからわたしの仕事場に足を運ぶことがあっても、今のこんな状況は決してなかった。彼が驚くのも当然だったのかもしれない。
背後でジャーファルさまが失礼します、と告げて静かに退室したのを聞いた。
さて、問題はここからである。わたしは一体何をしにここにやってきたのか。それを今から考え、筋の通った理由として彼に伝えねばならない。シンドバットの纏う空気ががらっと変化した。先ほどまでまるで死んだ魚みたいな目をしていたくせに、今やそれは爛々と輝いている(ように見える)。その瞳はとてつもなく大きな期待の光を覗かせていた。わたしが何を口にするのか、今か今かと待ち焦がれているのだ。強い意思の瞳に穴が開くほど見つめられ、その視線の矢だけで酸欠になってしまいそうだと錯覚した。

「あの、ですね…」
「うん」
「えっと…」

ぶうたれた不機嫌なシンドバットはどこへいってしまったのか。前のめりになってわたしの言葉を待つ彼に、どうも居心地の悪さを感じざるを得なかった。
思考を巡らせる。なにか、それっぽい理由を…
考えにはかなりの時間を要しただろう。わたしは喉の奥に飲み込んでいた重く固まったため息を、深く深く吐き出した。

「申し訳ありません、なんでもないです」
「ハァ?」
「お許しを。用件をわすれました。では」

早口で捲し立て、さかさかと部屋を退室しようと試みたが、勿論それが叶うことはなく、すぐに「待て」と制止の声がかけられた。錆びた金属のような鈍い動作で彼に振り返る。手招きをされる。その瞳は、来い、と言っていた。仕方なしにその側まで寄ると、今度自分の太腿を指差してわたしにこう告げた。

「座れ」
「え?」
「こーこーに。座れ」

ここ、とは、シンドバットの膝の上。正確にはやや脚を広げて腰をかける彼の、その脚と脚の間である。その瞬間の、わたしの心底嫌そうな心情は顔に出てしまっていたかもしれない。うげ、と声にしてしまわなかっただけマシだろうか。彼に背を向ける形で、命令された通りにそこに座った。職務時間中に、その職務を放り出してまでわたしは国王を椅子のようにして座っている。一体何をさせられているのか。この状況を理解しようとすると、どことなく頭痛がした。
わたしの胴体にはすぐに、太く逞しい腕が蛇のようににゅっと巻き付いた。それを後ろに引き寄せられるように強く抱き込まれるものだから、胴を強く締め付けられ、わたしは思わず蛙が潰れたような声を漏らしてしまった。

「お前なあ…国王の仕事を邪魔しておいて、やっぱりなんでもありませんなんて通用すると思ってんのか?」

(ど、どの口が…)
今が仕事の最中だったなどとよくもまあ寝言を言えたものである。勝手に苛立って、その様子にまるで仕事にならないと部下が泣き言を言ってわたしの元にやってきたことを知らないのであろう。だというのに、シンドバットはわたしの後頭部に頬を寄せ、ぎゅう、と人の身体を強く抱き込んだ。

「うぐ…、陛下、早く仕事にお戻りください」
「ダメだ。まだ…もっと匂いを嗅いでおかないと…」
「は!?ちょ、やめてください!離してください!」

宣言通り、耳の後ろ、首筋、頸、とシンドバットの高い鼻が滑るように移動する。かっ、と顔に熱が集まるのを感じたが、あまりにも頑丈に胴体に巻き付いた腕から抜け出せる術などなく、せめてもの抵抗とばかりに顔を背けて身をよじってみたが、一回りも二回りも大きなその巨体がわたしの身体を丸ごと抱き込んでしまうせいで、結局それらから逃れることは不可能だった。

「ジャーファルさまが!お困りです!仕事に戻ってください!」
「やっぱりジャーファルか…分かってるんだよなあ、あいつは」
「何がですか」
「飴と鞭の使い分け方をだよ」
「はぁ?」
「ま、入り口がどうであれ俺のために仕事を放り出してまでやってきてくれたことは感心するぞ」

あろうことか、今度は人の耳たぶを甘噛みするなどという巫山戯たことを始めたシンドバットに、わたしはもう我慢ならなくなって、その太い腕を叩いてやった。この攻撃が彼にほぼダメージを与えられないことなどは百も承知だったが、体面上だけでもわたしが彼に頭に来ているのだということを表現したかったのだ。

「なにっ、言ってるんですか!ジャーファルさまがお困りだったから、お願いされたから仕方なしに来たんですよ。それと仕事は放り出していません。…王と違って」
「え、ジャーファルのためにってか?」
「当たり前です…」

そう言うと、背後からわざとらしく、そして大きな大きなため息が聞こえた。肩にずん、と重みが加わって、シンドバットがそこに顎を乗せたのだということが視界の端に見えた。その表情はまた少し不機嫌そうなものに戻っている。もう街の娼館だのの美しい女性を呼び寄せて、彼女にその機嫌を取り繕ってもうらうようにしたほう方が早く確実ではないだろうか。わたしにはこの王の機嫌をうまく乗せて、ジャーファルさまが望むような仕事捌きをさせられるほどの力量はない。はたしてあの政務官さまはわたしに何を期待していたのか。またも無意識のうちに、こちらも大袈裟なほどのため息が漏れ出てしまった。

「おーまーえーがー!ため息をつくな!おら」
「ひっ!どこ触ってるんですか!変態変態!」

胴に巻きついていた腕が突如上昇し、あろうことかぐわしとわたしの胸を鷲掴んだ。この、この職務放り出し変態国王め。結構本気でその腕の中から抜け出すことを試みはしたが、それが叶うわけもないことは火をみるよりも明らかで、わたしはここで無駄な体力を使うのは得策ではないと早々に観念した。

「へ、へいか…分かりました、逃げませんので、どうか力を緩めていただけますか」
「怪しいな」
「本当ですっ、これではまともに話もできません」

そう言うとようやっと腕の力が弱まったので、わたしはくるりと身体を反転させて彼に振り返った。

「白状いたします、確かにわたしはジャーファルさまのご依頼でここに参りました」
「うん知ってる」
「陛下はお気付きか存じませんが、ジャーファルさまを始めとするこの王宮の者たちはみな困っているのです、何があったかは知りませんが、どうにもご気分が優れない陛下そのご様子に…正直、何故わたしがここに来るのを依頼されたのかは分かりませんし、わたしには王の職務をお手伝いすることもできません…ですので非常に、非常に、不本意ではありますが、陛下からお望みを仰ってください、わたしにできることであれば尽力いたします」

少し早口で捲し立てると、シンドバットはその切れ長で大きな瞳でわたしをじっと見つめた。

「ないのであればとっとと仕事に戻ってください」

すぱっと言い切りと、彼は今度がくりと肩を落とした。

「わかった。まあ、欲を言えばお前をこのまま膝に乗せて仕事をしたいものだが…さすがにそれはジャーファルにぶん殴られるだろう、やめておこう」

冗談のつもりだろうが、まったく理解の追いつかない奇行としか言いようがない。なぜそのような案が出るのか、甚だ不思議でならなかった。仮に言う通りにわたしがそばにいたとて、なにも彼に身体的、精神的なメリットをもたらすことはできないだろう。もしや、彼の体力だの気力だのを回復させる魔法をかけ続け、職務をばりばりとこなそうなどということを期待しているのだろうか。申し訳ないけれど、この王の体力気力を万全の状態に維持し続ける魔法など、わたしでは圧倒的に魔力不足で叶わない。あまりにも非現実的だ。
そんな思案を巡らせている合間にも、シンドバットはにこりと人当たりの良い笑みを浮かべてから口を開いた。

「今夜、仕事が終わったら俺の部屋に来なさい、美味い酒を用意して待っている」
「え」
「これが条件だ、どうだ、安いものだろう」

王が自分の仕事を全うすることに何か条件を提示すること自体がおかしいのでは…。わたしはそんな違和感を抱きながらも、しかしこれでようやくジャーファルさまの依頼を完遂できると、まったく一ミリもその提案には乗り気ではなかったが、致し方なくそれを承諾した。
「承知いたしました…」
「よし!いい子だ!ほら仕事に戻っていいぞ」

頬にちゅっと軽くキスをされる。カッと顔に熱が集まった。仮にも職務時間内になんてことを。すぐそばの彼の顔をわたしこそ殴りかかりそうになったものの、本調子に戻ったシンドバットにこれ以上余計なことはできまいと、なんとかそれを抑え込んだ。
部屋を退室する際、ひらひらとこちらに手を振る王はひどくご機嫌だ。それがまた癪で、睨みつけるようにその場を後にした。

本当のことを言えば、明日はヤムライハさまと黒秤塔に勤める文官たちに対して研究成果の中間報告を行う会議があって、今夜はその準備をするつもりだった。万全を期して明日に望みたいというのに、我が王はなんて面倒な提案をしてきたものか。そうだ、武装して行こう。夜半の頃合いともなれば、かのシンドバット王とて丸腰で寛いでいることだろう。今日は残りの時間でたっぷり英気を養い、魔力も満タンにして、魔法道具を忍ばせて行ってやる。負けるものか…
わたしはぐっと拳を硬く握って急ぎ黒秤塔へと戻った。

けれどその夜、悲しきかな、わたしの強い決意と意気込みは七海の覇王の前で脆く打ち砕かれた。宣言通り酒を用意していたシンドバットにあれよあれよというまにそれを飲まされ、そのままいいように扱われ、全てが終わったあと、結局わたしは翌朝の始業時刻直前まで死んだように眠り込んでしまった。全身の倦怠感に襲われながらも慌てて部屋を飛び出すわたしを、彼は眩いばかりの笑みで見送った。許すまじ、シンドバット王。衆議のギリギリで部屋に飛び込んできたわたしを見て、ヤムライハさまはいたくこちらを気遣ってくれたのだが、それがまた恥ずかしく、心苦しかった。
ジャーファルさまにはのちに褒美を強請ったとしても、罰は当たらないだろう…そうでなれけばわたしが可哀想すぎる。