月夜にこだま

 人を、猫のようだ、と形容することは無礼に当たることなのだろうか。
 わたしは生まれてこのかた尾形百之介という人間ほど、その行動や気まぐれさを猫のようだと思ったことはなかった。

 すっと開いた障子の隙間から、ぬっと人の影が部屋に落ちる。月の光は眩しいと思われるほど鮮明である。わたしは重たい瞼を持ち上げて、視線だけ廊下の、今しがた開けられたと思われる障子の方向へと向けた。逆光で、その人の表情は伺い知れない。本来であれば表情どころか、それがだれかもわからないほどだった。しかしこんな草木も眠る時間帯にわたしの部屋に忍び入るようにやってくる人物は一人しかいない。一人しか心当たりがなかった。かたん、と静かに障子が閉められる。その動作を眺めているのも億劫で、わたしは静かに目を閉じた。
 その日、わたしは風邪を引いて寝込んでいた。何年ぶりであろうか、体の奥底が燃えているんではないかと錯覚してしまうほどの高熱を出し、額に氷嚢を乗っけられたわたしは日がな一日割り当てられたこの部屋でひたすら熟睡していた。驚いたことは、あの牛山が甲斐甲斐しくわたしを看病してくれたことにあった。あの家永とかいう美人なおじいさん(まるで嘘のようであるが、あれで男性、しかも年配だという)をせっせと看病しているのはどうやら牛山自身の意思なのだろう、もしかしてあの見目で、実のところ彼は世話好きなのかもしれなかった。土方にもらった薬を飲んで(「若いモンがなんて情けない」と鼻で笑われた)、それはようやく熱も引いてきた頃合いだった。
 ほんの少しだけ、瞼を持ち上げた。人影は布団で寝ているわたしをまたいで仁王立ちし、こちらをじっと見下ろしていた。闇夜に目が慣れてきて、その人物がにんまりと笑みを浮かべているのが確認できた。非常に嫌な予感しかしなくって、わたしは顎の下にあった布団を頭の上まで引き上げ、次いでその布団の下でいそいそと体を反転させて蹲るようにして丸まった。せめてもの抵抗だった。

「…ぐっ」

 直後、わたしの背中に何かが乗っかった。重い。奴がわたしの背中の上に堂々と座ったのであろうことはすぐに推測できた。一応病人であるわたしにたいして何たる仕打ち。布団の上から頭をがしがしと撫でられた。

「こら、起きろ」

 こんな時間に、しかも病人相手に正気の沙汰とは思えないことを、きっとこの男は目論んでいるに違いなかった。すっと背中の上にあった重圧が消える。腰を浮かせた奴に、さあこちらを向け、と言われているのだ。非常に不本意ではあったが、正直わたしにはそれに従うしか選択肢もないため、、た変に逆らってこの攻防を長引かせてもわたしには一ミリもメリットがないどころか、この先で待ち構えている事態がさらに良くない方向へ向かうであろうことが目に見えて分かっていたから、また体を反転させて仰向けになった。

「うっ、…おもい…」
 
 今度はお腹の上に座られて、ものすごい圧迫感と息苦しさを覚えた。頭の上まで引き上げていた布団をゆっくりと剥がされる。相も変わらず、男はわたしの上に座ってにんまりと笑みを浮かべていた。

「付き合ってくれ」
「…嫌」
「ハハッ、この状況で拒否できると思ってんのか」
「…」
「すぐ終わらせてやるよ」
「…強姦だ」
 
 睨むように男を、尾形を見つめてやった。尾形に両手で顔をむんずと掴まえられたかと思えば、両の親指でさすさすと米神を摩られる。そうしてその親指はわたしの眉の上を撫で、米神を再度撫で、耳の後ろを滑り、首元をすうっと撫でていった。硬い指先である。何が楽しいのか、尾形はその動作を繰り返し、また時折親指でわたしの唇をふにふにと押しては顔中をむにむにと触っていた。幼い頃飼っていた猫に、ひたすら肉球で顔中を弄られたことをなぜかそのとき思い出した。しかし尾形のこの動作には、有無を言わせない命令の意図が含まれていた。「いいだろう?」と、その先の行為を容認するみたいに言っているようだった。何度も何度も親指で唇を摩られる。そうしてわたしの額に張り付いていた前髪を丁寧にどかした尾形は、上体を屈めてそこに唇をむにっと押し当てた。この男からキスをしてくることは珍しかった。

「移されたら困るからな」

 またハハッと軽く笑われて、病人相手に強姦まがいな行為をしかけようとしておきながらも、風邪をうつされては困ると唇にではなく額にキスをしたこの男に、そのとき確かにわたしは殺意に似た感情を抱いた。

 尾形の性欲にスイッチが入るタイミングを、わたしはいまだに掴めていない。男であろうから、きっと下世話な言葉でいえば、溜まる、という気分になることはあるのだろう。けれど時折わたしのほうから尾形に何とはなしにキスをしようとしてみても(もちろん性
行為に及ぼうとしてしたわけではない)、するりと軽くあしらわれ、挙句そのまま逃げられてしまうのだ。しかしわたしがまったく意図しないタイミングで、たとえば今夜のような寝込んでいる夜に、尾形はこっそりとやってきては行為に及ぼうとしていた。こちらから手を出せば逃げていき、そっぽを向けばあちらからやってくる、そんな気まぐれなところも、わたしが尾形を猫のようだと形容する要因のひとつだった。

 黒々とした瞳に、逃げることを許されないようにじっと穴が開くほど見つめられてしまったら、最早わたしは白旗を上げることしかできない。ゆっくりゆっくり布団の中へ、そして衣服の中へ冷たい指先は忍び込んでくる。わたしは、わたしに今覆いかぶさっているこの男を、明日には必ず高熱で魘されるまでに風邪を映してやろうと固く固く決意した。