きれいなものばかりに目を向けて生きてきた

木造の古い扉を押すと、同じように古びた蝶番がキイキイと金切り声みたいな音を立てる。視界には温かい灯りの充満する室内が開けた。扉に背を向ける形で椅子に腰掛け、机の上で書類にペンを走らせていた男は、顔をこちらに向けることもせず、ひたすら優しい声音で「どうした?」と告げた。気配か、足音か。何で訪問者をわたしと判断したんだろう。

「冷たいの」
「え?」
「ベッドが冷たくて、眠れないの」

エルヴィンはそのときになってようやくこちらに振り返り、困ったように笑みを浮かべた。扉に向かって背を向けるこの机の配置は少々無用心ではないだろうか。万が一武器を持った者に忍び込まれれば、後ろから頚動脈を一突きにされてしまうだろう。勿論、彼のことだからどんなに気配を殺そうとも、愚かな侵入者には即座に反応できるであろうが。
エルヴィンは笑むことで返答を済ませたつもりなのか、また机に向き直り、ペンを走らせる。わたしも同じく何も言わずに、綺麗に整えられたベッドに潜り込んだ。皺一つなかったシーツの中に入り込んで、そっとエルヴィンの横顔を盗み見る。冷たいシーツの温度は変わらないのに、この部屋の、このエルヴィンのベッドは今すぐにでもまどろみに落っこちてしまいそうなほど温かかった。無論、調査兵団の団長である彼のベッドと一団員であるわたしのベッドが同じ値段のものとも思えないが、今このベッドは、エルヴィンが傍にいる、というとんでもない付加価値がつく代物である。わたしの視線の矢をものともせず、エルヴィンは涼しい顔で書類を次々と仕上げていった。

エルヴィン・スミスは、切り捨てることのできる男である。100人の仲間と人類を天秤にかけたとき、彼は100人の仲間を切り捨てることができる。どちらを切り捨て、どちらを選べばその先に最善の結果というやつが待っているか、それが分かる男なのだ。仲間を切り捨てることができるのは、冷酷なのではない。それは、すなわち勇気である。これをはき違えるのは愚かな人間のすることだ。わたしには分かる。彼は、勇気を持っている男なのだと。エルヴィンなら、わたし一人と仲間100人を天秤にかけたとき、迷わず仲間を選ぶことができるだろう。わたしにはできない事だ。もし、わたしがエルヴィンと仲間100人を天秤にかけても、わたしは必ずエルヴィンを選ぶだろう。わたしには、それだけの勇気がない。たとえ世界に自分とエルヴィンだけになってもいいとすら思ってしまう。エルヴィンがいれば、それだけでわたしは幸せを見つけることができる。たぶん、それを恋とか愛だとかと呼ぶのだろう。こんなご時世、しかも調査兵団なんて死の最前線という皮肉がぴったりの身の上で、恋愛感情なんてものは、刃こぼれした剣の刃よりも無意味なものである。誰を好きだとか嫌いだとか、それはおおよそ我々には不必要で非生産的な感情だ。もちろん恋愛感情の延長線上にあるのが子孫を残す本能だとしても、その仕事はたぶん調査兵団のものではない。壁内で、有限の平和と安定を享受することのできる人々の仕事である。明日死ぬかも分からないわたしたちに恋だの愛だのは剣を持つ手を鈍らせるだけだ。そう、頭ではちゃんと理解しているのに、わたしはやっぱりエルヴィンが好きなのだと実感してしまう。彼のそばにいたい。彼に笑ってもらいたい。彼に触れてもらいたい。今まで人を殺すか巨人を殺すかしかしたことのないわたしに、なにが恋でなにが愛なのかだなんて到底理解できるはずもないが、持ち合わせている知識を経験に照らし合わせてみると、これが恐らくその、恋だの愛だのなんだろう。
わたしには、勇気がない。
こんな感情を持ち合わせるなんていうのは、わたしがまだ子供である証拠なのだろうか。生きる上で必要のない玩具を手放したくないと泣き喚く、子どもと一緒なのだろうか。大人になれば、切り捨てることができるようになるのだろうか。

それができるようになったとき、果たしてわたしは生きているのだろうか。

エルヴィンが椅子から立ち上がってこちらに歩み寄る。幼い子供にするように優しく優しく頭を撫でるくせに、その瞳は確かに雄の眼をしていた。

「私だって聖人君子というわけではない。」

意味を、理解する。

「どういう意味?」
「こんな夜更けに男の部屋を訪れる意味が分からないわけではないだろう」

心の中で、小さくほくそ笑んだ。頭を撫でていたエルヴィンの手が、わたしの頭を枕に押さえつける。彼のキスは、いつもの温厚さは欠片も感じられず、ただまぐわりたいと本能が訴える男のキスだった。彼が残された仕事を投げ打ってでもわたしを選んでくれたことが嬉しくて、そのキスに答えるように舌を絡ませる。本当は分かっていたけど。わたしがこの部屋を訪れた瞬間から、ベッドにもぐりこんだ瞬間から、わたしにはこのビジョンが見えていた。それは恐らく、エルヴィンの優しさを、わたしが知っているから。

キスをされて嬉しいと思うのは、やっぱりわたしがエルヴィンを好きだと言う証拠だと思う。そして、エルヴィンはわたしがそんな感情を抱いていることに気付いているのだろう。彼は聡明だ。だからこそ、それに応えることなどしない。ただじゃれあうようにキスをして、セックスをして、中身のない、恋人ごっこみたいなことをする。それでわたしは喜んで、嬉しいと感じているのだから、多分この行為が間違っているわけではない。
間違っているのは、わたしのほうなんだ。

「んっ…」

服を脱がしにかかるエルヴィンの指が、素肌の鎖骨に触れる。嬉しい。あったかい。
今まで何度となく自覚して、理解してきたことなのに、今更涙が溢れた。エルヴィンがわたしを選ぶであろうことはないということ。わたしの抱いている感情が、無意味で無価値であるということ。わたしが、こんなにもエルヴィンを好きになってしまっているということ。明日死ぬかもしれない。そうこの身を持って実感しているからこそ、彼を求めてしまう。けれど彼は決してわたしを選ぶことはしない。エルヴィン・スミスは、この生きるか死ぬか、人類の存亡がかかる最前線を率いる調査兵団の団長になるべくしたなった男なんだと思う。彼は子供じゃない。捨てることが出来る、大人なのである。涙を零すのは、子供のすることなんだよ。分かってはいるのに。情けない、子供のわたしが涙を零すの。

エルヴィンの動きが止まる。

「エルヴィン。」
「なんだ」
「わたしが明日、死んだとして。わたしは、ここに、残るのかな」

エルヴィンの左胸に手を当てる。彼の心臓に、わたしが確かにここにいて、この時代を生きて、あなたを好きでいたことは、果たして残るのだろうか。もちろん、残らないことは分かっている。彼はいくつもの屍を超えていかなければならない。わたしのたったひとつの軽い命を特別に扱うことは、彼にはできないのだ。彼はもうそんな風に生きる人間ではない。

怖い。漠然とそう感じた。初めて壁の外に出たとき。初めて巨人に遭遇したとき。初めてヒトが巨人に食われるのを見たとき。あのときの恐怖が、彼を好きでいるということに対して生まれた。やめてしまえばいいのに、わたしはそんなことすらできない聞き分けのない子供なのである。

こんな世界に生まれてこなければよかったのに。もっと傍にいたい。もっとキスをしてほしい。名前を呼んで欲しい。好きだと伝えたい。好きだと言われたい。愛していると言われたい。わたしだけを見て欲しい。100人の仲間より、1000人の仲間より、何万の全人類より、わたしを選んで欲しい。わたしだけを愛してほしい。
何の形にも結果にもならない、果てしなく無意味な涙がぼろぼろと溢れた。この涙を零すという行為は、大人になるための通過儀礼なのかもしれない。たくさんたくさん、馬鹿みたいに涙を零して、悲しくなって、そして大人になっていくのだろう。大人になれば、わたしもきっと、選ぶことが出来る。たった一人のエルヴィンではなく、100人の仲間を選ぶことが。大人になるとは、そういうことなのだろう。

「はやくおとなになりたいよ」

早く大人になって、わたしもあなたと同じ世界を見てみたいよ。エルヴィンの大きな身体が覆いかぶさってくることで、わたしの世界はもう彼一人だけになってしまった。それでいいのに、とそう思ってしまうのは、子供の弱さであり、我侭である。

「君はもう、十分に大人だよ」

エルヴィン。大人は涙なんて流さないんだよ。