美しく生きるということは、潔く死ぬということだ

目の前に降り注ぐ血の雨はあまりにも赤くて、綺麗だとすら思った。けれどそれらはわたしの体に付着すると、すぐに酸化してどす黒く変色していった。それはもう綺麗でもなんでもなくて、わたしはたった数秒前まで同僚だったそれを見て汚いと思った。

門を越えた瞬間、わたしの記憶と経験は、全て記録に変わる。温かい血肉の感触も、立体起動装置で飛び回った浮遊感も、目の前で同僚が死んでいった悲しみも、この身を焼き尽くさんばかりに渦巻いていた巨人への憎しみも、ぜんぶぜんぶ記録に変わる。思い出すことは容易だが、それに感情は伴わない。脳みそに映像としてインプットされるだけなのだ。巨人に喰われていった同僚の、最後の悲痛に満ちた表情はちゃんと覚えている。憎悪と悲壮が入り混じった、壮絶な面だった。その瞬間は、恐らくわたしも彼とおんなじような顔をしていて、その直後に巨人への憎しみを滾らせたに違いない。だけどいま、彼の表情を思い出しても、わたしの中に特にこれといった感情は湧いてこなかった。
他人はそんなわたしのことを冷たい非情な人間だと言う。第三者の視点から見れば、それはわたしだってそう思う。死んでいった仲間たちに何も思わなかったわけではない。ただ、今はもう何も感じないだけなのだ。だけどこれは、巨人を殺し人類の自由を手に入れるための、そして調査兵団の一団員として必要なスキルだと思う。わたしだって初めて壁の外から戻ってきたとき、その後三日くらいは毎晩吐いていた。泣きながら、ぐちゃぐちゃにされた同僚を思い出して胃液を吐き続けていた。けれど人間は「慣れ」という恐ろしくも素晴らしい業を身につける。段々と時間がたつにつれて、仲間が何人も目の前で食い殺されるところを見て、そして自分が生きて帰ってきたと分かると、わたしは例のスキルを身につけていた。門をくぐった瞬間、大衆の煩わしい歓声と悲鳴を聞いた瞬間、すべては空に還る。ふわっと身体が浮いたような気がして、わたしを取り囲んでいた全てが昇華されるのだ。血を被って重くなった上着も、気が遠くなりそうなほどの傷の痛みも、ぜんぶが消えていく。だからきっとわたしは生き延び続けることができているのだろう。わたしには特別どこぞの兵長のように力があるわけではないが、そんな自分を抑制する力と、立体起動で戦う際にやや有利になる小回りの利く身体があるおかげで、こう何度も壁の外に行って生きて帰ってくることができるのだ。
大衆のこちらに叫んでいる声は聞こえるが、内容までは聞き取れない。まるで朝起きてシャワーを浴びたあとのように、はっきりとした意識と真っ白な感情がいまのわたしにはあった。わたしのことを異常だと言ったやつもいたような気がする。まだ生きているかは分からないけれど。

まあ勿論、自分で言うのもあれだが、壁の外から戻ってきてわたしほどしらっとしている奴は他にはいないだろう。みなそれぞれに憂いの表情だの、悲痛の表情だのを浮かべて馬に揺られている。ようやく本部に到着し馬から下りたわたしは、とにかく汚れた身体を綺麗にしたくてシャワーを浴びようと建物に入った。そこでは負傷した団員達がうめき声を上げながら床に伏せっていたり、報告を急ぐ団員がせかせかと走っていたり、隅で泣き崩れている者もいた。一刻も早くシャワーを浴びて寝たい、だなんて考えているのもたぶんわたしだけなんだろうな。そんな騒然とした広間を足早に抜けようとしたところで、視界の端に見慣れた金髪を見つけた。あちらもこんな喧騒の中何も考えていないような顔で暢気に闊歩するわたしを見つけたのだろう。一瞬だけ目が合って、奴の口が「部屋で」と動いた。すぐに視線は外されて、部下からの報告に対する返答が再開される。見つからないようにしておくべきだった、と今更悔やんでも仕方がない。何よりシャワーを浴びたかったわたしはそれを予定より15分繰り下げることを決め、階段を上った。

エルヴィン・スミスはわたしが部屋に到着してからすぐに自分もやってきた。部下の報告だの、王都への報告だの、帰還してからやることはかなりたくさんあるだろうに、彼は壁の外から戻ると必ずこの執務室にやってくる。今日は怪我人も犠牲も多かったからもう少し時間がかかると思っていたため、その到着の早さには目を丸くした。エルヴィンは腰の立体起動装置を入ってすぐのところで床に捨て、革張りのソファーに深く腰掛けた。緩慢な動作で上着のボタンを外し、脱いでソファーの空いているスペースに投げる。いつもの動作である。人類の希望を信じ壁の外へ出て、多くの犠牲を払いほとんど成果と呼べるようなものを得られずに帰還したあとの彼の行動は決まっている。わたしは血が乾いてぱさぱさに固まってしまった髪の毛を指で弄ってから、彼の前に立った。この瞳を見ても、今のわたしは何も思わない。怖いとも、悲しいとも、何も思わない。本当に、慣れとは怖いものだと、心の中でほくそ笑んだ。ソファーに腰掛けるエルヴィンの膝と膝の間に立って、彼を見下ろす。190センチ近くあるエルヴィンは、座っていても立っているわたしとさほど目線の位置が変わらない。いや、まあ、この際、わたしの身長が他の人よりほんの少し、かなり僅かに低いことは認めよう。うん。けれどいつも空を見上げるようにして見る彼の顔が、自分より少し低い位置にあるのは中々新鮮だと思う。わたし、今日かなり汚いんだけどなあ、と思ったが、そんなことを口に出すのはグモン、というやつだ。エルヴィンの手がわたしの後頭部を捕らえ、もう一方の手で二の腕を掴まれた。それらを一気に下から引っ張られ、わたしの上体は強制的に斜め下へと傾くことになった。
始まりは、歯と歯がぶつかり合うほど激しいキス。その後強制的に口を開かされ、咥内を舌でいやというほど蹂躙される。それはキスというよりかは、捕食か何かの方が近いかもしれない。何度も唇か、それとも舌を引っこ抜かれて食べられてしまうんではないかと危惧したほどだ。わたしだって純情な乙女ではあるまいし、少しばかり普通より激しいキスくらいで息を荒げることはない。けれどエルヴィンのこれには、非常に体力を持っていかれる。ほとんど唇から咥内も全てぱくりと食んでしゃぶられるようでは、こちらの息づきも難しいのだ。そしてこれは何より長い。エルヴィンの気が済むまで終わらないため、大体平均して20分近くは続けられるのだ。こんな調子では、調査兵団で巨人達と戦って生きて帰ってくることができるようなわたしでも、息は上がるし、死ぬほど疲れる。全力疾走でフルマラソンを走ったあとのような疲労感と息苦しさが襲う。フルマラソンなんて走ったことないけど。
そのうち段々と不安定な体勢を支えていた膝が笑い始め、前に倒れこんでいく。それを分かっていたかのように、エルヴィンは器用にもキスを途切れさせることなく、わたしを膝の上にうまく乗せる。ちなみにわたしからすればエルヴィンの身体は軽く巨人クラスの大きさに感じられる。そんなプチ巨人に抱きこまれ、キスと呼ぶにはあまりに可愛げのないそれが更に深く深くなっていく。

「ふ…っ、ふぁ、」

あまりにも息苦しくて涙がじんわり浮かんでくるころ、エルヴィンはようやく唇を解放してくれる。しかしそれはわたしのための休憩のようなもので、2秒後にはまた再開される。そんな感じでかなり短い休憩を挟みつつ、エルヴィンは何度も何度もわたしの口をしゃぶった。行き場のないわたしの手は、毎回胸の前でぎゅうと握り締められている。

エルヴィンのこれは、わたしが門をくぐった瞬間に行っている昇華の儀式のようなものなのではないかと推測している。人間の温かくて生々しい粘膜を、自らも同じ粘膜で感じ取って、自分が、そしてその相手の人間が生きていることを確認しているのではないか。この行為によって、彼は自分の人格を保ち、柔軟な思考を常に持ち合わせることが出来ているのではないか、とわたしは考えるのである。初めてエルヴィンにキスされたときは、それは驚いたし動揺したが、例の「慣れ」というものがわたしに全ての普通ではない経験を普通にしてくれた。
わたしがそんな推測を立てるのにはもうひとつ理由があって、それはエルヴィンがこの行為をセックスに繋げることがないためである。こんな激しいキスをされればその先にいやでも予感してしまうその行為にまで彼は及んだことがない。彼にその気がないだけかもしれないと言われてしまえばそうなのだが、これはなんていうか、わたしの勘である。中々凄まじい環境で培ってきた野生の勘という奴だ。エルヴィンはこれが終われば、部屋に入ってきたときのような瞳はもうしていないし、僅かに雰囲気が柔らかくなっている。いつものエルヴィンに戻るわけだ。わたしがこんな行為に付き合ってやっているのも、終わった後の”いつものエルヴィン”に会いたいからである。自分の部下が目の前で死んでいって、それを何回も何回も見て、確かに精神を平常に保っておくのは難しいだろう。わたしのようにある程度の切り替えという儀式を行わないのなら尚更だ。エルヴィンがこの行為によって何か救われるのならば、付き合ってやってもいい、というのがわたしの考えだ。

目を薄く開けてみても、本当にこのバカでかい図体全部を使って抱き込んでいるため、彼の背後から差し込んでいるはずの日光さえ分からない。まだ終わらないのかな、と思案してもう何度目か分からない生理的な涙が米神を伝ったのを感じ取る。
唇が解放される。新鮮な酸素が肺に送り込まれて、わたしはひゅっと一度大きく息を吸い込んだ。唇も舌もふやけてしまったように、あまり感覚がない。漸く唇を含め、わたしの上体を圧迫していたエルヴィンが離れていったことにより、自分が今彼の膝の上でまるで赤子のように横に抱きかかえられていたということに気が付いた。しばらく呼吸が整うまで肩で息を続ける。はっは、と短い呼吸を続けるわたしを、なんともいえないような表情でただ黙って見つめるエルヴィン。彼も少しだけ息が乱れている。毎回そうだ。ほんのわずか悲しそうな、切なそうな顔で息が整うまでのわたしを見つめてくる。わたしを子供かなにかと勘違いしているのではないのか、この男は。わたしはといえば、日々の鍛錬の賜物か、さほどの時間はかけずに呼吸を整えることに成功した。ただ唇は相変わらず感覚が鈍い。肩を支えてくれるエルヴィンの太い腕の上に頭を預けたまま、わたしはぼんやりと彼の顔の奥に見える天井を眺めた。唾液でべたべたの口周りをエルヴィンが丁寧に拭ってくれる。それを素直に甘んじて、ようやく目のピントが合って、意識がはっきりしてきたわたしは身体を起こした。
はー。今日はやたら長かったような。とは毎回思うため、いつも同じくらいの時間なのだろう。後ろからエルヴィンはわたしの頭を数回ぽんぽんと叩いて立ち上がる。

「よく休めよ」

お前がな、とすぐさま喉の奥で返答をしてから、その数秒後に声に出して「うん」と返した。エルヴィンが部屋を出て行く。まだまだ仕事が山積みなのだろう。わたしは当初からの目的であるシャワーへ向かおうとさっさとソファーから立ち上がって同じように部屋を出る。しかし扉のすぐ横に誰かが寄りかかっているのを見つけて、思わず情けない声を上げてしまった。

「な、なにしてんのリヴァイ…」

リヴァイはいつもように不機嫌そうな顔で、腕を組んで壁に寄りかかっていた。チッ、とひとつ舌打ち。え、なに、わたし舌打ちされるようなこと言った?彼の理不尽な扱いにも慣れてきた頃である。勿論わたしも馬鹿ではない。リヴァイがたった今ここに来て、偶然部屋から出てきたわたしと鉢合わせたわけでないことくらいは分かる。リヴァイはこの扉の奥でわたしがぬちゃぬちゃと巨人に口を食べられていたことを知っている。そしてわたしもリヴァイがそれを知っているということを知っている。すべては分かりきったことを前提に進められているのだ。リヴァイが顔をこちらに向けた。多分こいつが見上げることなく、寧ろ少し目線を下にして喋ることができるのはわたしくらいなのではないだろうか。そりゃあ調査兵団にはリヴァイより小さい団員もいるが、頻繁に言葉を交わす間ではわたししかいないと思われる。ハンジやエルヴィンはおろか、班員の全員はリヴァイより目線が上にある。わたしがいてよかったなチクショウ、と今まで何度も心の中で叫んできたものだ。

「テメェ俺に報告することあんだろ」
「え、いや、あとでいいかなと思って」
「いいわけあるかクズが。」
「先にシャワー浴びようと思ったの、気持ち悪いし」
「ここがシャワー室かよ」

リヴァイにしては面白い冗談だと思った。彼の瞳がわたしを捉えた。

「おい」
「なに」
「口拭け、汚ねぇ」
「は?女子に向かってそんな軽々しく汚いとか言わないでよね」
「誰が女子だ誰が。」
「大体汚くないし」

一瞬ひやっとして、思わず唇に触れてみたが、エルヴィンが拭いてくれたお陰もあって唾液で濡れていたりはしなかった。ていうかわたしもなにをこそこそとしているのだろうか。別に執務室でセックスに励んでいたわけではない。わたしのこれは慈善活動なのだ。いわばボランティア。褒められることがあっても咎められる筋合いはない。と思う。リヴァイはかなりイライラした様子で何回も舌打ちを連発したところで、はあ、とため息をついた。

「むぐっ!?」

そして何を思ったか、自分の腕(上着は脱いでいたため、シャツであった)でごしごしと乱暴にわたしの口元を拭った。正直かなり痛い。何度何度もシャツの布で唇を擦られて、腕が離れる頃にはじんじんと熱を持って痛みを感じた。くっそこのチビなに考えてんだ。

「ひはいんやけどっ」

唇を重ね合わせることすら痛くて出来ないために、情けない声の反論しかできない。しかし一方リヴァイは何故か少し満足げな表情をしてくるりと踵を返した。

「シャワー浴びたらすぐ報告に来い。15分後だ。遅れたら殺す」
「は!?15分とか無理!」
「なら死ね」
「りふじん!」

小さな背中が更に小さくなって見えなくなる。わたしはひりひりと痛む唇を労わるように指で触れ、肩を竦めた。早くシャワーを浴びてこなければ。自分も踵を返してから、ふうと息を一つついた。
もしリヴァイが死んでしまったとき、今までと同じようにそれを記録として昇華するのは少しだけ難しいだろうなと思った。